戦争機械の帝国的配分Ⅲ

アメリカ人はハッキリさせたがる傾向を持つと同時に、しかしいつもそのハッキリさせ方によって、何か方針を間違い続けているという、パラドキシカルな性癖がある。自分の内部にある意見を自分の欲望の持ち方とともにハッキリさせようと、外向的に放出させるアメリカ人的な態度の決定とは、その必然的なメカニズムとしても、いつも誤りを含みやすい。ハッキリさせるのはいいが、後からその誤りを修正しつづける軌跡において、アメリカ人の性質をよくも悪くも表している。

ハッキリさせる、でも間違える、の繰り返しである。間違ってもよいから、まずハッキリさせるという身体的な健康性を選択し続ける有様において、アメリカとは好戦的な体質であり、静的安定というよりは動的でダイナミックな賭けに自らをさらし続けることを好み、そして自由であると同時に社会的には戦争機械も抑圧しない。

アメリカは内部に荒廃としての戦争状態を抱えている国家であるとはいえ、まだ競争には一応勝ち続けている。ボロボロになりつつも(「ボウリング・フォー・コロンバイン」のような映画で内部から告発されている、まさにその通りに、アメリカ社会とは本当は、明らかに「病気」であるのだが)、体面としての、世界史的国家、自由の理念を実現させている国家としての君臨は続いている。

戦争機械を内部にも外部にも抑圧しない、容赦ない国家の姿というのが、国際的には名目的優位のヘゲモニーを取り、頭に乗っかることによって、一元的な統合性へと向かう。そのような現在のグローバリズムの体制、世界資本主義の表面的なる秩序的な有り方というのは、一応、シンボリックには出来上がっているように見える。

この地球上の世界全体の民主化過程、近代化過程、及び安全化、安定化過程の達成自体が、現在的にはこのアメリカ的一元化のヘゲモニーの元で為されつつある、完成されつつある。アメリカの突進力および破壊力は、地球上の前近代的な国家、独裁体制的な国家のあり方というのを、ことごとくに上から破壊して推進することの出来る、武装力、権力をもっている。

つまり国家的な戦争機械、戦争機械−国家というもの(それは一個のリヴァイアサンとしてのアメリカ国家の姿だ)が、偶然にも、あるいは世界史の必然的な成り行きとしても、世界の頭角的な部分を占めることによって、国際政治の歴史的な力学から成る矛盾やフリクションの蓄積としての歪みを、戦争的に、力学的なある種の自然性として放出し続けている、世界の全体体制が生じている。

アメリカが頭角的な優位であり統覚的な機能を世界の全体化に及ぼしているが故に、社会体にとって必然的な自然性のレベルに当たる戦争機械の次元は、常に歴史的な地層の内在的マグマからはよく放出されて定期的なリフレッシュも蒙っているともみえる。

アメリカの一極体制とは実はそれなりに世界を安定させやすいのである。戦争は定期的な力学的な放出としてやむを得ない次元のものと考えれば、アメリカの一極体制はそのようなガス抜きを合理的に実施しうる全体的なシステムにも見える。というのは果たしてこれよりも良いグローバルな体制がありうるのか、というところで、システムの合理性の観点から見たときに疑問が生じるからだ。腐っても相対的には、世界はこれ以外に合理的な安定をもちえる体制の有り方というのは有り得るのだろうかというところにポイントがある。

現在的には、アメリカ帝国主義の延長線上に接木されることによって、グローバルレベルでの資本的統合としての帝国的な国際政治とは階層化されて、微妙なヒエラルキーによって機能している。経済システムのネットワーク的な統合化は、それに対応するための警察的=軍事的な体制としては、アメリカの軍事体制に一極化させて委ねられることによって、グローバル・セキュリティのレベルでは、ある種の安定性をもたらしている。

それは大きな国家的対立(としての戦争)を限りなく無効にしうるのと同時に、必然的な紛争の噴出とは、警察行為の名目でもって、小規模な事件の消火行為として皆、打ち消していく。もはや戦争のない世界、戦争の終わった後の世界とは、一極的な巨大集中が実現された世界のことをいうようになり、それこそ世界の帝国的統治というのが、具体的な国家的表象というよりも、ネットワーク的に姿を抽象化させた世界資本主義のメカニズムとして実現されはじめる段階のことなのだ。

アメリカは実は世界を安定させやすい。何故なら戦争を最も抑圧しない、隠蔽しないシステムが、アメリカ的なものだからだ。紛争としていつも戦争的な放出の火花は、実際にはアメリカの支配化ではおこっているが、しかし、そのように小型の紛争によって力学的な放出を繰り返しているという現象は、大きな局面から見れば、大きな戦争、世界全体的な戦争を回避させることのできる手段になっているのかもしれないからだ。帝国的ネットワークとは、そのままアメリカの所有するシステムのネットワークに接木されることによって延長的に形成されているように見える。

アメリカ的な理念から言えば、戦争とは常に賭けであり、戦争の報酬としては自由を約束し続けることに、その理念的な理想がある。そしてそのようなアメリカ的理念とは、世界史的にみても合理的によく完成されたものである。他にこれ以上に自由について、合理的に、かつ現実的に提示できる理念がありうるとも、あまり考え付かないのだ。

社会体が必然的に抱え込む、暴力、紛争、葛藤と、その上で対処されて構築されなければならない経済的な社会システムのあり方について、相対的に他にありえるシステムというのを考えてみればよいだろう。新しい帝国のシステムとはアメリカ的な帝国主義の遺産の延長上に、構造的にも依存して存在する。