戦争機械の帝国的配分Ⅱ

世界資本主義は自ら存続するためにネーション=ステートを取り込んだが、存続するためには、さらにそれを自ら破壊することを辞さないのである。・・・ネーション=ステートは白紙から生まれたのではない。それは先行する「地」としての帝国の解体と分節化によって生じた。ネーション=ステートの枠組が揺らいできた現在、それにかわる原理として「帝国」が参照されている。・・・帝国についてのありふれた誤解を避けるためには、まずそれを帝国主義から区別しなければならない。それに関してはつとにハンナ・アーレントの指摘がある。帝国主義は、帝国とは違って、ネーション=ステートの延長なのである。

柄谷行人は帝国には三つの構成要素があるという。第一のものは「法」的な条件としての帝国。第二は世界宗教の構成としての帝国。第三は世界言語の形成としての帝国の性質である。柄谷行人のいう法的レベルでの帝国の機能とは、国と国の間を統御しうるもの、いわば商業的な取り決めとしての国際法のレベルということで、まずは考えられている。(つまりこれは古典的な意味での帝国の完成条件である。具体的には、地中海交易によって過去の第一帝国−ローマ的なもの、が完成されていること。中華的な帝国の形成においてもやはりそのような商業的で中間法的な次元が帝国の形成条件として先行している。)

しかしこの帝国の機能要素を、過去の原初的な帝国時代のレベルものではなくて、現代的な新しい帝国の問題としても捉えなおしてみよう。現在的にいって、帝国が不可視の次元に入り込み、かつ偏在体として機能はじめるというポイントにおいては、法的、掟的条件としての帝国的コントロールの実体とは、何物かの間接的な強制力として、我々に、生活的にも身体的にもメディア−情報コントロール的にも働きかけてくるものであるはずだ。つまり帝国の条件とは、それがどのような社会的な強制力として現象しうるのかというポイントによって、そこからそれがどのような帝国なのかという性質が分析しうる。

日本のイラク派兵決定のプロセスを巡っても、そこには二重の審級が機能していた。日本の国家意思と、そして帝国(=この場合はアメリカによって)的な審級から要請されている意思である。ここには世界資本主義の現在的段階としての、帝国的軍事フォーメーションの参加決定というのが、帝国の実体的機能として現象した。日本の国家的意思決定の国会的プロセスにおいて、野党側からは、これはアメリカの言いなりであると指摘され、与党側からは、アメリカの言いなりではなく、国際貢献としての日本の主体的な意志である、という説明がなされる。おそらく野党と与党のどちらの説も当たっているのだが、単にアメリカの強制力ではなくて、そこの国際貢献という審級の働き方において、グローバル・システムとしての世界資本主義の到達的次元を見ることができるはずだ。

社会的な強制力については幾つかの審級がある。国家の命令と帝国の命令という条件の違いについて考えたとき、単に国家的な命令であるというだけではなく、そこに国際協力としての命令の次元が多いに含有されている実体によって、帝国的な決定−命令権の次元というのは実在している。個体に作用を及ぼす生−政治のレベルにおいては、見えない帝国の次元というのは、命令権の二重性の中に折り畳まれて機能や影響力を及ぼす。

世界資本主義の完成は、それ自体が全体的なものとして機能を現し始めるのと同時に、帝国的な完成を無意識的にも志向する。国家の枠組がそこでは消えるように見える一方で、命令の中枢とは国家以外のもう一つの審級として、二重化し、目に見えない微妙なメタレベルとして、その見えない審級の影響力が機能しはじめる。「帝国」とは何故それが問題としてあるのかといえば、何よりもそれが強制力の条件を決定させる審級として実在する機能であるからだ。そのような帝国には権力の主体も交換が容易に可能である。着せ替え人形のようにそれは取替え引き換えができる。帝国とは特定の主体や固有名によって実現されるというよりも世界資本主義のシステム自体の内在的な傾向性であり必然性であるのだから。

イラク戦争強制執行したのがブッシュ政権であり、ブッシュ政権の背後にありうる経済的な団体を、とりあえず今回の帝国的警察権行使戦争の「主体」と見なすことは可能であろう。また実際に戦争の責任者として、そのような実体を主体として突き詰め、正確に責任の追及なり責任の分配なりを見出さなければならないような局面というのも、あるかもしれない。アメリカの政権が偶然にブッシュのものではなかったなら今回のイラク戦争は起こっていなかったのかもしれないのだが、世界資本主義とアメリカという表象的中枢を巡る歴史的な地層の内在においては、常に溜まっている力学的な暴力性を、戦争の形式で放出させようとする圧力は働いているものだ。次の選挙でブッシュが降りたとしても、そのような力学は潜在的に持続している。だから、またいつ次の偶然としてのタカ派的な権力の表象と人物、政権が現れ、そのような帝国としての暴力装置の引き金を引くことになってもおかしくはないという力学は、潜在性として続いている。

帝国がもはや、どこにもない場所、言い換えれば不可視の機能として偏在するようになるというのなら、「帝国」の正体とは無意識的で惰性的なる、資本主義システムの力学的な傾向のことだろう。資本主義が世界資本主義としての世界性を獲得し、それ自体で運動体として進行し、展開を遂げる中で、力学的な安定として、帝国という完成の形態を、無意識的にも意識的にも志向することになるということが、資本主義によって必然的に体現される世界性の中に内在された一定の傾向性である。

帝国はその見えない顔の無責任性も相まって、自己を最大限に強化し、その過程でシステマティックな搾取や簒奪の体制においても、強力な権限も携えながら、進行していく過程である。そこにあるのは資本主義のグローバルレベルでの完成へと向かっている運動体である。社会体システムのグローバル=資本主義的=帝国的進行によって、情報流通のハイパーシステムにおける高度化と、物資・物質の運搬交通機能のスピードの極限化、国際的な社会的分業の工場的統合力の最大レベルでの引き出し、武力・兵器システムの最高上限への達成というのは、より深度を増して達成されつつある。

しかし説によると、資本主義は完成に達する次元において同時に脆さも現し、自壊するポイントというのを見せ始めるのだという。そこがネグリとハートの、世界資本主義=帝国を解体しうると見なしている条件である。しかしこれは本当だろうか?