戦争機械の帝国的配分

1.
マイケル・ムーアは語っている。

コロンバインの事件はきっかけにすぎない。構想自体は長い間、温めていたものだ。アメリカ人が暴力行為に走り、解決の最終手段として「力」violenceを選んでしまうのか。幼い頃から疑問だった。米国民なら皆、感じてると思う。

社会の道徳的秩序の在り方にとって、力の配分とは必然的に構成される。その力の配分が、どのようであるときに最も社会が合理的に安定しえて、また単に「平和」であるだけというのではなく、社会の潜在的フリクション、葛藤性としての問題も、それが具体化して表出される紛争、暴力性ともに、うまく収められて解決しうるのか、ということが常に、体制と秩序の関係においては問われている。

しかし暴力の発生を抑えて、それを論争的な土俵、平面上の、論理的な解決の問題に持っていけるのは、やはりそれも暴力についての抑制力の実在、防衛的な権力の配分の仕方によってであるということになる。

それは警察的な意味での管理的な体制の民主的な管理の在り方の問題であり、そのような市民的な問題意識の共有である。故に社会にとっての防衛的な権力および武力的手段の所有というのは、民主的な社会体の維持には不可欠なものであり、それをどのような管理と監視のもとにおけば、最も市民的な意味で合理的な体制に近づけるのか、という方法論的な模索というのが、社会的に、それは世界の「グローバル・セキュリティ」のレベルで問われているのだ。

2.
まず、それが理想的にはどのようにあるべきかという問いを立てることは出来ないのだろう。現在的にそれがどのようなものであり、具体的にどのような段階のレベルであるのかを事実的に検証することの中から、実証的な在り方としての世界レベルでの、防衛体制の存在の論理というのが見えてくるはずだ。それ以外に具体的で現実的な秩序のあり方を提示することは不可能である。

冷戦からソ連崩壊以後のパワーバランスでは、警察力としての権限はアメリカに一極集中することになった。その結果、国際的な対立性、敵対性のあり方というのが今では、巨大化するアメリカの支配力に反発するテロリズムという形態になっている。先進資本主義国のレベルで、イデオロギー的な意味でも軍事的な意味でも、アメリカと敵対を組むような国家とはもはやありえない段階である。

自由主義と資本主義経済のバランスの中で、国家間の経済的なコマの争いを経済競争として維持しつつ、国際政治のグローバルな観点から、どのように政治と経済的資本を配置することが、暴力的な紛争、戦争を回避させることができるのかを見つけることが、今の世界秩序の在り方の中で問われている。

3.
柄谷行人は次のような指摘を語っている。(文学界04年3月号 「帝国とネーション−序説」)

ネグリとハートは、必ずしもアメリカ合衆国が帝国だといっているのではない。むしろ、「帝国」はどこにもない場所である。・・・要するに、ネグリとハートが帝国と呼ぶのは、世界市場あるいは世界資本主義にほかならない。世界資本主義が望むのは、自由主義的な交換によって剰余価値を得ることである。それは、それに対する各国の抵抗や干渉、そして、それをもたらす体制を、すべて反自由民主主義的なものと見なす。そして、アメリカ合衆国がそれを実行しているように見える。しかしアメリカ合衆国はそれ自身ネーション=ステートであり、自国の利害によって動いている。すなわち世界資本主義(帝国)の中にあって、「それ自身の国家的動機」に促されている。「グローバルな法権利の名において」行動することは、その国が帝国主義でないことを少しも意味しない。むしろ、二十世紀以後では、帝国主義帝国主義を否定する身振りの下でしか存在しなかったのである。

アメリカは911の後に、象徴的なリベンジとして、あるいはアメリカ国民に提示すべし儀式的なスペクタクルとしても、まずアフガニスタンを攻撃し、タリバン政権を破壊した。テロリズムの温床となっている環境を根こそぎにするためである。反米勢力としてのテロリズムで危険度が高いのはまずイスラム系のテロリズムである。イスラム原理主義系の過激なテロリズム勢力を、その環境からして根こそぎにして滅ぼす。次にブッシュを中心にして率先するアメリカは、イラクへの攻撃を実行した。

何故イラクを戦争によって攻撃しなければならないのか。その大義としての理由になった、イラクの密かに所有するはずの「大量破壊兵器の存在」というのは、しかし今ではどうやら大規模な国際的な虚妄であったことも明らかになってきた。(これは現在では珍しい世界史的な錯誤行為、集団的な大規模な錯誤としても後々記録に残ることだろう。)

イラクを戦争攻撃によって転覆させることによって、アメリカにはどのようなメリットがあるのだろうか。まず反米危険勢力としてのテロリズム的な国家に対して、それを破壊して根こそぎにするか、あるいはその他周辺の武装国家に対しては脅威を与えることによって牽制、抑制をする。(実際、リビア北朝鮮に対して反米的な突っ張りを抑制させた)

戦争後のイラクの再建にとって、石油の権利をはじめ、この戦争を遂行したアメリカにとってのメリットとして、大幅にアメリカの優先によって、経済的な利益をそこで独占しうる体制を取り得る。前近代的な悪質な独裁国家体制を世界上から解消するということは、世界的な正義の行使の観点からも進歩、世界史的前進の提供として肯定されうる。実際、中近東の地域でのイスラム原理主義テロリズムというのは相当数を一掃できて、この地域のセキュリティ上の透明度も向上しうるのだろう。

しかしそれを先制攻撃としての戦争行為として、無害なイラクの大衆さえをも無意味に殺人に巻き込まざる得ない大雑把な暴力行為によって、それを性急に行う必要があるのか、という点に関しては、絶対的な飛躍があった。そこの飛躍を強引に飛び越して戦争の実行行為にまで持っていったのは、ブッシュ政権の政治手法だった。世界的な正義およびグローバルレベルでのセキュリティ上の実現。それが大義名分である。

それに伴って戦争の代償、報酬としてイラクの経済的再建上の利益の摘出に関しては、圧倒的にアメリカ主導で行える。実際イラクを再建するにしても最初は大量の赤字予算を組まなければならないのだ。だから日本をはじめとしてイラクの再建には多額の経済援助、国際援助をアメリカは要求して募っている最中なのだ。

アメリカは復讐行為を自国民に向けて全体的な昇華作用として、象徴的に放出しうると同時に(それは戦争のリアルタイムでのテレビ中継の映像をスペクタクル的に活用する)、経済的な利益の権限も将来的には握れるという、二つのメリットをこのイラク戦争によって得たことになる。実際にイラク戦争におけるアメリカの受け取れる予定の最大の報酬とは、石油をはじめとするイラク国土における経済上の利益の独占体制であり、それがこれでアメリカの摘出しえる剰余価値のレベルである。

同時に最初から、もしこのような剰余価値の、利益の獲得が予定できなかったのならば、まさか絶対にアメリカたりとも、こんな無謀な戦争の実行行為に可決して出てくるわけがなかったものだ。アメリカにとっても「正義」とは最初からそのものとして存在していない。経済的な利害関係の計算の中から、あくまでもそのような「正義」の理念が算出されたのだ。そのような全体像においてイラク戦争とは「合理的」なものであった。