セキュリティの起源Ⅲ

1.
ボウリング・フォー・コロンバイン」の映画において、前半部はアメリカでは何故銃の所持を禁止にできないのかという理由を、マイケル・ムーアが様々なアメリカ人の元へ取材にいくことによって、アメリカと銃の関係についてのイデオロギー的ともいえる、根の深い構造、歴史を解明していくプロセスにあたる。

拳銃の所持とはアメリカ的自由の重要な一部分というのも、歴史の中では担ってきたものだった。アメリカ人にとって自由の獲得とは自己防衛力の獲得と不可分なものとして存在してきたからだ。

しかし、現実には、銃がそこにあるからという環境的な事実性によって、アメリカの銃事件の悪循環が起きているにかかわらず、アメリカ人の一部は自由の理念の建前によって、あくまでも銃所持の自由を守ろうとする。もっとも銃の無邪気に氾濫する環境によって間違いを招きやすく、実際に悲しい事件を引き起こしているのは、実はアメリカの子供たちのレベルであるという事情にもマイケル・ムーアのカメラは向かう。

2.
アメリカの学校では生徒が銃をクラスに持ち込んでいないかどうかのチェックと監視をすることにままならない。しかしそれでも銃を見せびらかしに学校に持ち込む生徒は消えない。幼い子供の場合は、なんの分別もないままに銃を玩具代わりにして遊び、そして無邪気に引き金をひいてしまう。無意味に殺されてしまう子供たちも後をたたない。

そのような取材の後には、こんどはアメリカ人の同じ保守的な層の人間たちが、声高にして自由を規制しようとしているジャンル、対象というのが実は存在していることに、マイケル・ムーアの映像取材の焦点は移動する。保守的なアメリカ人は、一方で、ガンコントロールの規制については、自由の理念の建前から反対しようとする。しかし同じ人々が、もう一方の対象については、盛んにその活動の拡大を抑制し規制にかかろうとしているものがあるのだ。それはロック歌手のマリリン・マンソンである。

コロンバイン高校の乱射事件の犯人である高校生男子二人が傾倒していたのがマリリン・マンソンだったという。マリリン・マンソンとはアメリカでは系譜的に続いている黒魔術系のルーツにあるメタルロックのジャンルにあたる。レコードアルバムとしては「メカニカル・アニマル」や「アンチクライスト・スーパースター」などがある。

マリリン・マンソンはロック・カリスマとして、音楽業界でもよく売れているアーティストの一人である。元は南部の白人層に発生の起源のあたる黒魔術系のアメリカンハードロックというのは、独自の人気をずっと保っている。元はオジー・オズボーンのブラックサバスやアリスクーパーなどが最初の走りであった。70年代くらいから頭角を現し、アメリカ南部的なメンタリティを最初は題材にしていたものの、商業的なヒットの波にも乗ることによって、アメリカ全土だけでなく、ハードロックの一ジャンルとして、今では世界中に、それは広まって根強いファンを獲得している。

マリリン・マンソンの前提になっている類似性とは、やはりアリス・クーパーにあたるのだろうし、元々アリス・クーパー系の支持層というのを、現在的にはマリリン・マンソンガ継承し、マンソン自身のヒットの大きさによって、以前以上にこの黒魔術系ハードロックのジャンルのリスナー層を拡大している。アリス・クーパーは学校、社会をドロップアウトした若者の層の主張の代弁者として機能し、擬似カルト的なカリスマ性質、悪魔主義的な世界像のビジョンというのを題材にして、音楽を作り、ライブ活動をし、そして発言や主張を売り物にしていたものである。マンソンはこのようなアメリカのメディアの一部に昔からある、反社会的主張性の傾向の黒魔術的な系統のアート世界の流れを引き継ぎ、音楽的にはそこにインダストリアル的なヘヴィメタルグラムロック系のSF志向を融合させたものだといえる。

3.
ここで注意すべきなのは「ボウリング・フォー・コロンバイン」の支持者やあるいはムーア自身にも、マリリン・マンソンについての妙なシンパシーが発生しがちなことである。もともとマンソンは単に美学的な意識からアーティストとしての自分のスタイルを築き上げている人間であるだけで、元からその主張に論理的な一貫性があるわけでもないし、単に刹那的で無根拠に言葉を詩的に喋っているだけである。

単細胞な左翼の側からもこの映画を見てマンソンを支持するかのような論調さえ見られるのだが、マンソン自身が本当はそのようなものではありえないのはもちろんだし、左翼側からそのようなシンパシーを反映されたとしても単に妄想的な想像解釈に過ぎない。

マンソンは本当は単にエンターテイナーであって凡庸であるというのが実体だろう。だからアメリカのメディアで、マリリン・マンソンを持ち上げる側も叩き非難する側というのも実体はその殆どが演技であり演出なのだろう。いわばアメリカ−メディア的なる恒例であり約束事のようなものであるのだ。マイケル・ムーア自身もそのような演技に酔っているような感もある。マリリン・マンソンのような代替物というのは現代アメリカの中で幾らでも系譜的に辿れば出てくる存在であったのだし、なにもマリリン・マンソンだけが最近になって突然登場したわけでは全くない。

昔からそのようなヘヴィメタルの一派、黒魔術擬似カルトを叩くようなスタイルはマスコミ的にもアメリカではずっと慣習的にも存在してきたのであり、キリスト教団体のようなものがそれを叩くのだとしても、もはやそのようなバッシング自体が単に儀式的なのだ。お互いに叩き、叩かれ、それで商売にしている。飯を食っているというのが正しい。マンソン自身はただの虚構であり、本気というよりも商売であり演技であるのだろう。すべてが。そこにマイケル・ムーア的な妙なナルシズム的なイメージを投影するのもすべて計算のうちである。

4.
マンソンは映画の中で、恐怖のイメージを政治家やメディアが煽るのはそれが商売だからだと批判するが、マリリン・マンソン自体がまさにそのような同じ意味での商売であり、あまりにもアメリカ的な虚構でありシミュラークルなのだ。そもそもマイケル・ムーアが自分で気がついているのかどうか知らないが、マンソン系のアメリカ黒魔術、カルト的世界像のシステムというのは、元々がアメリカの南部的なものの、有名でもあるが一側面の性質に根ざしている。

それは現代アメリカの歴史において、元はKKK団の活動によって存在していたものが、KKK団が社会から消滅していく過程においてはメンタリティや精神的なシステムとしてそれがそのまま黒ミサのリチュアルな秘教的伝承として残ったものだ。オジー・オズボーンやブラックサバスの初期がまさにそのようなものであったのだし、そのようなKKK的メンタリティというのが、いろいろに屈折や進化を経た挙句に、現在的には「マリリン・マンソン」によってメジャーに表象されているのだ。

もちろんそこには(想像−妄想としての)差別もあるし人殺しもあるし、虐殺も虐待もある。それら黒ミサの形式が依拠している根拠とはいつも社会への絶対的な絶望である。若者たちに単純化されたそのようなイメージを撒くことによって彼らは自分のファンをひきつけている。表面的なアメリカ的体制世界像の単純な逆転として、転移しやすいイメージであり、まさにそれが「アンチクライスト・スーパースター」のコマーシャルな表層なのである。

5.
1920年代から30年代にKKK(クークラックスクラン)が活動を活発化した背景というのは、黒人がアメリカ社会の中で人間的権利を獲得していくプロセスの中で、黒人に仕事を奪われてしまう白人層の不安からこのような活動が活発化したものである。特に30年代の大不況化のアメリカ社会にあってはKKKの活動はもっとも活発化した。

この期間というのは、アメリカで始めて移民の禁止政策、抑制政策が取られた時期でもあったのだ。白装束で身を包み松明を燃やしながら秘密裏に集会・ミサを行う。燃える十字架をそのシンボルにしている。白装束に一応に身を包み顔にも全面にマスクを被せて、目の場所にだけ黒い穴が空いているその井出達である。彼らは黒魔術的な前提のもとで、白人(特にカソリック系)の結束を高め、黒人とその支援者にターゲットをつけて襲撃を加えリンチすることを目的とする集団だった。

しかしこのクークラックスクランに対応する日本の現代的なシステムというのは、インターネットの「2ちゃんねる」のもつ社会的な次元が担っているのではないかと見える。ある種、匿名性の仮面の元に一様に顔を隠した集団が、ホワイトウォールの連なる様を演出しているようで、そこからブラックホールとしての視線、目の穴だけが浮き出ている景色である。匿名名無しのホワイトウォールの連続の中で、そこの空間にはしかしブラックホールとしての誰かの視線が窪みとして定期的に並んでいる様というのは、日本の2ちゃんねる型の壁面構成にも似ている。

KKKがある種の真摯さの中で、神妙な秘密儀式を危険を賭けて執り行う古典的なシステムであるのに対して、日本の現在的な2ちゃんねるシステムというのは、表面的にも実体的にももっと喜劇的な井出達であるものだ。

しかし匿名−名無し、裏であり、透視不可能であり、そして裏ー暴力的性質、イジメやリンチ的な性質というのは、古典近代的な秘密結社としてのKKKというより、現代日本的な2ちゃんねるのほうが、はるかに機械的に高度に合理化されて発散されうるシステムに完成しているもののようにも見える。何故なら本当にKKKのように暴力を振るうというよりも、仮想性によってあくまでも精神的に簒奪・搾取を完成させるという、形式的には「非暴力」なシステムであるのだから。

いずれにしろ社会システムの全体的な重層化の中で、KKKでも2chでも、裏−暴力的なシステム、あるいは裏−解消的なそれが発生的に登場してくるのは、社会現象としては共通で同様のメカニズムの中から出現するだろう。KKKの白装束の顔面マスクとは、まさにあれが名無し匿名としての不気味な壁面構成の方法である。

そしてブラックホールとしての、視線、目の位置の所在というのが、僅かな大きさだが定期的な窪みとして認められうる。しかしあくまでも仮想世界の妄想性の中に拘り、殆どの場合はそこに止まるだけの妄想的な暴力性の様というのは、KKKなどよりもはるかに合理的にかつ合法的に、悪衝動を発散させうるゲームシステムとしては、よく完成度が高いのではないかに見えるだろう。2chの内部では暴力さえもが喜劇的に流通する。その仮想性ゆえに。