セキュリティの起源

自衛を身に付けることは義務である。特にそれはアメリカにとっては国民の義務である。自衛力がないこと、自分で自分の身を守ることが出来ないことは無責任にあたるのだ。・・・マイケル・ムーアは銃の使用について、普通のアメリカ人の日常生活の現場を訪ねていっては、その意味を問うている。銃所有や銃を普通にスポーツとして楽しむようなアメリカ人の口からは、ほぼ同様の構造をもつ答えが返ってくる。アメリカ人と銃の所持の肯定とは、アメリカにとっては国民的なイデオロギー的な領域にもあたっているのだろう。

日本の歴史の場合、一般人が武器を所有し、自衛のレベルでも、政府に対する革命権のレベルでもそれらを封じ込めることを全体的に成功させたのは、豊臣秀吉の「刀狩り令」の発布によってである。(1588年)秀吉の刀狩り以降とは、日本では兵農分離が進み、農民の階級的固定化が出来上がるようになったのだ。以後、日本ではドメスティックなレベルでの庶民個々の自衛や武装というのは、共同体的に封じ込められるようになる。個々人が暴力的に他を制圧するのも不可能になるし、村や共同体の自衛のレベルにおいてもも、武力の行使とは常に集団的な管理に伴うものになる。秀吉のこの政策の成功は、以後の日本人の国民的体質というのを決定付けるものになったはずである。

そもそも日本の政治的なシステムの安定性の起源というのは、構造的にいって、遡れば、戦国時代の動乱期を政治的なアナーキーの最盛期として、それをどのようにして収めるかという方法論上の模索によって、確立されてきたものとして見れるはずだ。自衛的でかつ自己武装的な政治性、それは自由であるのと同時に常に他者からの暴力的脅迫にも脅かされているものではあるのだが、自由なダイナニズムを担った政治性として織田信長の政治が最初にあげられる。しかし信長は天下統一以後、自らの依拠したその自由性によって、むしろ部下たちの謀反を招き、クーデターが成功してしまう。信長が失敗したことの後を受けて天下統一を担った秀吉の政治手法とは、そのまま一つ前の信長の政治方法論の批判にあたる。

天下統一と国家的治世の方法論を巡って、信長から秀吉、家康とそれぞれ、日本の政治ステムの方法論的な進化を象徴的に表しているものだ。最終的に徳川家康によって、江戸遷都及び天皇の京都在住という分離によって、国内的な動乱性をうまく静めて安定させる力学的なシステムが出来上がるものだ。もう既に家康からの政治にあっては、人民の自己武装力というのは、うまく抜かれていて、階級制的な庶民の身分の固定化というのは完成されていた。そのようにうまく内乱的な力の発生をガス抜きにさせるシステマティックな仕組みがそのとき完成されていたのだ。以後、日本の政治システムはこのような静的な安定性のもとで独自に発達をすることになる。

マイケル・ムーアがインタビューで指摘するように、日本人というのは他人が不幸にあるときに共同体が寄り集まってそれを助けるシステムだというのならば、元々からしてそれは個々人のレベルでの武装権の禁じられた政治のシステムであったのだから、村に何かの災厄があったとき、それを解決しうるのは、個人というよりも、集団的な協議の力であったのだ。そのような体制は昔から必然的に出来上がったものだった。

信長・秀吉・家康の政治論の違いを象徴的に示すイディオムとは、有名な不如帰を巡る三者三様の詩である。それは信長にあっては、「鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス」というもの、秀吉は、「鳴かぬなら、鳴かせてみよう、ホトトギス」であり、家康にっては「鳴かぬなら、鳴くまでまとう、ホトトギス」であるように。信長的な自由で動乱的なダイナニズムの政治手法から、秀吉、家康と渡って、それが安定的でかつ静的、そして自己抑制的な政治方法論に展開していくのがみえる。そこに天皇についての政治的な解釈論が加わることによって、日本的な政治の治安とセキュリティにまつわる体制が完成されていくことになる。