『ボウリング・フォー・コロンバイン』

マイケル・ムーアは語っている。(『ボーリング・フォー・コロンバイン』DVD版に収録の監督インタビューより)

この映画が焦点を当てているのは、コロンバインの事件や銃規制問題ではない。それはアメリカ社会に根ざしているもっと大きな問題点、つまり我々の生活の中にある『恐怖の文化』、米国民が凶行に走る原因そのものだ。我々アメリカ人は周囲からの攻撃を常に恐れている。他人から受ける危害、子供の誘拐、サメの襲来、そんな心配ばかりで安心して外出もできない。そして恐怖が募ったあげく皆が銃を買い込み、その結果、知り合い同士が銃で打ち合う。銃問題が多発する一方で皆がバイオレンス映画を見る。「今日、何をする?」「銃撃映画でも見ようぜ」そんなノリだよ。…人々に恐怖心を抱かせるのはメディアや政治家、それに法律や秩序などだ。犯罪率の増加や麻薬事件など悪い要素ばかり話題になるが、現実にはこの10年間犯罪率は年々低下している。殺人事件は二割も減少したのに、テレビが報道する殺人事件は、以前の6倍近い規模だ。これは明らかに恐怖を利用した金儲けだ。マリリン・マンソンのいうように、人々は恐怖を煽られた結果、警報機や護身用の道具を買いに走る。自分の口臭や肌の色を気にするのと同じように、他人からの攻撃を恐れ、自己防衛に必死になる。そんな絶え間なく続く恐怖がアメリカ人を逸脱させている。他の国にはない現象だ。

しかしこのインタビューに続くマイケルムーアの論調というのは、アメリカに比べて日本というのは銃犯罪の発生率が極端に少ない。これはいったいどういうことか。私は日本の社会構造を理解したい。どうすればアメリカも日本のようになれるのか・・・といった調子で、日本が銃犯罪が少ない故に賛美されるような傾向性というのは、日本の社会で生きてきてそのシステムにうんざりしている自分にとっては、いささか滑稽な風も感じた。

アメリカ人は個人主義が強くって日本では協調主義が強い。このアメリカ人のエゴの強さが今のシステムを生んでいる。特に「日本人は、他人の痛みを自分の痛みとして受け止めることができる・・・」といった件には、単にマイケル・ムーアキリスト教的なヒューマニティを(つまりアメリカの理念の理想的建前)、無条件に日本の社会に、彼自身の無知の故に、投影しているものに見えるだろう。

銃の所有者たちが(映画に対して)腹を立てたよ。彼らは弱い人間だから銃を持つんだ。強い人間なら銃を必要だと思わないが、臆病で弱い人間は銃の存在に頼ってしまう。だから彼らに望むことは恐怖心をなくし、銃なんかに頼ることなく、まともに行動することだ。日本人のようにね。・・・

マイケル・ムーアのこの発言は両義的なものを含む。これはおそらく日本の配給元あてにインタビューで語ったものだからだろうが、別に日本人にとって人間的本能にありがちな攻撃性や動物性がよく隠蔽されているからといって、まずそれで日本人がまとに行動しているということには全くならない。しかしマイケル・ムーアというのは、このようなノリと勢いに任せた楽観主義的な調子というのが数多く見受けられる人だとは思う。

アカデミー賞で、突然主催側を裏切りブッシュの批判をヒロイックにまくしたてたマイケル・ムーアの姿にしても、あまりにも軽いノリに調子を奪われすぎる傾向性があると思う。しかしムーアの性格のそのような単純性を指してやっぱりアメリカ人的であるというのならば、まさにマイケル・ムーア自身も単純で凡庸なる、大雑把なノリが好きなアメリカ人であるはずなのだ。これが単純な左翼ジャーナリストとしてのマイケル・ムーアの甘いところであるのだろう。

実際、ドキュメンタリーとして制作されて、全編に軽快なロックンロールやパンクの曲が流れ、青空の色を背景にしてパット・メセニー風のフュージョンギターを使い爽やかなアメリカ的早朝の景色などを演出し、アレンジに利用するムーアの手法とは、アメリカで一般的なメディア映像のスタイルを(つまり商業主義的プロパガンダに何処までも塗り固められているが故にその外部もないような映像的手法。楽観的で清浄感がありコカコーラのような爽快感を基調にしいてるコマーシャリズム映像の手法そのままに)、それらを逆転的に転用することによって、リアルなアメリカ、現実界の不気味な他者性とそのような映像−コマーシャリズムが並列している様子を見事に描ききっているともいえるだろう。

マイケル・ムーアアメリカ的コマーシャリズムを何処までも忠実に再現し、その連続の最中から逆転として、他者性としての不調和なものが浮き上がってくるのを作品の効果として待ち受けてうまく捉まえ、この映画的表現で成功しているのだ。

単純で大雑把な味付けというのは、マクドナルドのメニューのハンバーガーそのままに類似するものである。あのマックのハンバーガー的な大雑把さ、単純性のようなものを指して、アメリカ的であり、特にその均一性と画一的生産性の反復して連なる景色をもってして、アメリカのコマーシャリズム的な物質性そのものなのだろう。そしてマイケル・ムーアの映像的手法とは、あくまでもそのコマーシャリズムの中に則り、内在していくことによって、そこに逆転なり亀裂なりが映像的事件の瞬間として表出されてくるのを待ち受けているものなのだ。