アメリカと戦争機械Ⅱ

1.
アメリカは戦争機械を抑圧しない。世界の強国の権利として警察権を行使し、他国の政治とグローバルレベルのセキュリティに自分が中心に深く関与しようとするが、アメリカ自身は国内の内部にも決して戦争的なものを抑圧はしていないのだ。社会体の構成における安定性と戦争機械の次元、潜在的な社会性としてのホッブズ的な世界観とは、アメリカのシステムにこそリアルに実現されて生きているものだ。

社会体が一定の安定をするためには、同時に、常に社会の中に起こりうるフリクション、内的な戦争性の次元をなんらかの形で解消し、放出し、発散し続けなければならないメカニズムがある。それは社会体の持続と生態にとっての自然性のレベルの次元である。例えば日本のシステムを例にとってみたときはそれがないか、あるいは屈折している。戦争、あるいはミクロなレベルからして、葛藤やフリクション、諍いは常に起こっているものであるはずなのに、日本ではそれを実際に有るものとして表面化できないシステムなのだ。

これは安定的であるのと同時に不健康なシステムでもある。そのような日本的なシステムの支配下で頻繁に常景化されるものとはイジメ的な景色である。日本は安定しやすいのと同時に、葛藤や社会体の潜在的なる戦争機械の次元からいえば、陰湿なのである。そしてそのような独特ともいえる日本的な屈折した光学のシステムを美学化すれば「陰翳礼賛」という考え方も生まれる。

2.
その点、アメリカ的システムはストレートであるのと同時に正直でもある。内的な衝動は抑圧するというよりも表出しようとする体質こそがアメリカのものである。日本的なシステムが内向性のものだとすれば、アメリカ的とは外向的である。世界の警察権として頂上に君臨する帝国的で警察的な国家の体制は、自分の領域の内部にも戦争を飼っている。

放し飼いにされた戦争状態が、アメリカの市民的生活の中においても顕著に露出しており、それが拳銃所有の自由の前提の中では、しばしば、庶民的なレベルでも国家の下のほうからの突き上げてくる事件性として、拳銃的暴力の陰惨な事件も引き起こしている。99年に起こったコロンバイン高校の生徒による銃の乱射事件とは、そのようなアメリカ内部の戦争性にとって象徴的な事件となった。

日本では平和憲法のレベルでも、天皇制的統治のレベルでも、まず社会体にとっての戦争機械のレベルというのは、抑圧するか、隠蔽しようとする傾向は強いだろう。それに対してアメリカのシステムというのは合理的であるの同時に、好戦的でもありうる。システムの安定には同時にシステムの動的な回転の必然性として、「戦争機械」の次元を何処かで取り込まなければならない。

高度化し大衆化したシステムの安定しにとって、そのような放出的戦争性、戦争的代替のゲームシステムとは、一般的である。プロスポーツのリーグ争いのシステムでも、サッカーのワールドカップのレベルでも、それは高度な文明社会が失ってしまった戦争的な常態性というのを、システムが媒介することによって合法的かつ代替的に構成しうる、ゲーム・システムとして、うまく大衆的に発散させて、昇華させようという機能なのだ。それは文明とシステムの発展の中で自然に定着してできあがった、人間社会の知恵の賜物である。システムを平和に安定させうるためには、そこで失われる人間的な動物的本能ともいえる戦争機械の次元というのを、何処かでは代替的に、そして逆説的にも取り戻させてやらなければならないのだ。

3.
社会体の根底にあるのは戦争機械である。ドゥルーズガタリが「ミルプラトー」の中で明らかにしたものとは、社会体の歴史におけるそのような次元の正確さにある。戦争機械を無意識的なレベルでも意識的なそれでも、抑圧しうると考えてはいけないのだ。このような戦争機械の次元にある種の媒介された主体性の意識でもって望めば、それは柄谷行人蓮実重彦がかつて80年代に言っていた「闘争」性の次元をいうことになるだろう。

例えば一般的に「反戦運動」というとき、それは確かに国家レベルでの、兵器や武器を媒介にしたレベルでの反戦をいうときは、そのような運動は正しくあることはできる。しかし社会体の根底的で根源的なレベルにおいては、戦争機械の次元というのが隠蔽が不可能なものであることを見るのならば(ホッブズのいう、万人における戦争状態という自然)、そのような事実的な前提の中から想像的で共同幻想的な共同性を脱臼させながら、戦争と暴力に対する反戦運動の次元を立ち上げるとき、それはどのようなものになるのかということが問題になる。

4.
反戦というのは、むしろ小さな差異を解放するためには大きな暴力を封じなければならない、という逆説性にこそ本当は基づくものであるはずだ。社会のアナーキーとしての自然状態や、あるいは単に複数の人間たちがそこに存在すれば、もうそれだけでコンフリクト、葛藤というのは生じるのだ。そのような小さな戦争としての、コンフリクトには、論理的なレベルのものから、権利を巡っての競争的なレベルのものまで、小さな戦争の次元は様々ある。小さな対立を一つ一つほぐして論理的に明らかにしうるのは、大きな暴力は防ぐという前提を共有するものの元でしかないものだ。お互いに暴力的な直接的行為には及ばないという前提が共有されて信頼関係があるからこそに、論理的なレベルでの明瞭化すべし交換というのは持続していけることができるだろう。

しかし、そのような基本的で原初的な交換のレベルにおいてさえも、もう既に人間的行為の内在性としての、戦争のレベルというのが潜在的に含まれているものであるという事実は、見落とすことも隠蔽しうることもできないものだ。つまり正確な反戦運動、正確な非暴力の次元というのは、小さな差異を解放するためには、大きな暴力を抑制する、という論理的な前提のもとでこそ、それは正確な非暴力として立ち上がることができるだろう。

小さな差異を明らかにするためには、その一つ上のレベルの暴力を禁じることによって、平等で正確な土俵を作らなければならない。そのような媒介された競争についての土俵を無数に作り出していく営みの中で、社会体としての正確で健康な安定性というのは実現されうる。