アメリカと戦争機械

1.
アメリカとは国家の成り立ちの根本的なメカニズムからして、元から逃走によって生き延びている国家であった。逃走と自由の獲得を巡ってアメリカは原動力にして生きている、動いている。それがアメリカという国家の全体性にとって根幹的な部分である。だからそれは国家としてはいささか特殊な国家ではある。

ヨーロッパから逃亡してきた民が、自由という理念をスローガンにしてそのような国家を人工的に建設したところから、今のアメリカの歴史は始まっているのだから。ゴー・ウェスト。西へと移動を続けること。

西とは未開地であるのと同時にそこには巨大な金鉱が眠っているはずだ。それはアメリカの建国時にとっての神話であり、幻想的な理念でもあるのだが、しかしそれはアメリカがアメリカ的であるためにはどうしても必要とせざるえなかったはずの夢の形式であり、幻想であり、あまりにアメリカ的なる仮象のことであり、それはアメリカの理念的なる原型であった。

2.
六〇年代の若者の文化的な社会現象のヒッピーが担っていたのも、そのようなアメリカの歴史の凝縮としての逃走性であったはずだ。アメリカに機能する自由の概念というのが、一方ではそのような逃走性に与するのと同時に、もう一方では自由とはアメリカにおける暴力的なものの次元の放出性にも関与している。

アメリカにとっては暴力についても最大限に自由を保障する。拳銃の保持の自由とは、アメリカ国家と暴力の関係について、シンボリックな次元を担っているのだ。GUNによって象徴されるアメリカと自由と暴力の関係をドキュメンタリー映画の形式で追及したのが、マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』である。

アメリカ人にとって自由の概念の拡大とは、動物的で無媒介的な自己の衝動、欲動の次元にまで、それは当然及ぶだろう。動物的な自由、理性的にそれを示すのは難しいのであるが、嫌なものは嫌であると、そのような他性について、ハッキリと暴力的に放出することの出来る、主体の爽快な自己意識の自由である。暴力とはそのとき放出であるのと同時に自己解放的でもある。

3.
暴力が個人の自我の機能や社会にとって必然的であるのというのは、何よりもそれが防衛的な機能に関わるからだ。個人は自由の根拠からいっても、まず自分自身を守らなければならないし、道徳的な共生を脅かす他者の侵入についても、そこからコミュニティや社会を守らなければならない。

自由の条件として身を守るというのは義務でもある。自衛権の自由というのは、そのまま個人やローカルコミュニティが自分たちで武力をもってしても自分たちの権利と生活を守るという、防衛的体制、防衛的な権力及び暴力装置保有に繋がる。それがセキュリティの理念の体制として具体化しうるものだ。

自由の無制限な拡散というのは、何処かで道徳的な着地点を求めて回帰してこなくてはならない。そのような回帰の方法論において、アメリカ人は自衛としてセキュリティとしての暴力、自己武装というポイントにおいてそこの転回を行うのだ。

アメリカ人的な発想というのは、アメリカの建国の歴史以来(1776年)まさに歴史的なものであるのだ。しかしアメリカ人的な一般性に見られるこのような性質というのは、人間にとっての人間存在と暴力にまつわる斬っても切れない関係、深い関係というのを示しているのだろう。

4.
アメリカという国土(風土)にとって自由とは本質である。しかし拡散していく自由とは何処かで回帰し道徳的な秩序に戻ってこなければならない。秩序を道徳的に再統握しうるのは、父権的で男根的なオルガニゼーションのあり方であるというのが、アメリカの歴史にとって伝統的な思考だった。そのようにして先祖代々、アメリカ人は大陸の中で未開の奥地にも入り、時には原住民たちとも戦い、あるいは和解しながら、自分の身と家族の安全と共同体を守って、生きてきたのだ。そのようにして開拓時代のアメリカとは歴史を切り開いてきたのだという物語になっている。

共同体の秩序とセキュリティとはこのような防衛的な権力の畏敬によって成立する。戦いと防衛のために鍛えられて、引き締まった逞しい力の具体的な姿とは相応の美と威光、オーラを備えているものだろう。自らを鍛えて防衛的に武装した共同性の在り方というのは、アメリカのようなフロンティア・スピリットとしての開拓的スタイルの共同性、国家性にとって、最も合理的でかつ完成された体系でもあるのだ。

5.
アメリカにおける自衛権の思想の発達、自分の身を守るのは結局自分であるという思想は、ある意味、自由と自律を兼ね備えているようにも見えるのだろう。道徳的な回帰とはアメリカ人にとっては、明晰さの概念とともに、強権的な発動としても在り、あくまでも明瞭に、輪郭をはっきりとした形式で、正義の理念が実現されているのを見るのを好む。

アメリカ人とは、自由で自律しているのと同程度に、個人の物の考え方や態度の表明も、ハッキリしている。ハッキリしているが故に、それは健康的で美しいものでもあるのだ。アメリカ的に見れば。悪に対しては敢然として立ち向かい、そして容赦もない。駄目なものにははっきりと駄目を突きつけるだろう。

そこに容赦もないしズブズブとした拘泥もない。何故ならハッキリしているものこそが美しいのだから。正義とはハッキリとその輪郭が光臨し勃起してきたときに美しいのだ。・・・一本のガンを手にとってみようか。そこには拳銃自体の美しさと、拳銃のそれまで担ってきた人間の歴史的な重みがズシリと伝わってくるだろう。

最初は大きな拳銃が主だったが、拳銃自体も一般販売の商売として純化されるのと等しくして、もっと合理的で個人使用の護身用まで、拳銃の愛好すべき種類のヴァラエティを増したのだ。リボルバーを手にとって見ればその拳銃の歴史の重みに感じ入ること浸ることもできるはずだろう。・・・一本のガンの美しさというのは、そのままアメリカ的男根のオーラにも繋がっているのだろう。