モダニズムと労働概念の変容

1.
酒井隆史は「労働拒否」の概念について次のような注釈をつけている。

ここは誤解が生じやすいところだと思うが、「労働の拒否」とはけっして生産性や生産活動の拒絶ではない。けっして「なにもしない」ということの肯定ではないのである。「なにもしない」という現象としてたまたまあらわれるにしても、本来の目標はそこにはない。「労働の拒否」とはフォーディズムのもとにおける賃労働、資本主義的生産関係の拒否であって、それゆえに「プロレタリア階級」の生産性、創造性への展望がたくされている。「そこでは労働の拒否は単なる労働の科学的組織化に抗するネガティブな表現であるのだけではなく、また生産や再生産の社会的メカニズムを再領有する欲求のポジティブな表現である。これは主体や闘争の多元性を結びつける社会的絆であった。」
『自由論』新しい権力地図が生まれるとき

資本主義社会下の労働を疎外された労働と規定すればそれまでの共産主義の中では、労働とは主体性によって共同的かつ人間的に取り戻すべきものであるということだった。国家として具体化された共産主義体制のメカニズムはまさしくそういうものであり、労働と労働する身体を条件付ける全体的なパースペクティブのあり方というのが共産主義のあり方を決定するのと同時に限界付けていた。スターリニズムの条件とはこのような労働に対する神聖概念にもとづく。

労働者主義に基づく社会主義のあり方というのは、20世紀の国家的体制の中で具体的なものとして動き出し実現されはじめたときに、それらが明瞭で一定の傾向性にもとづくものであることも明らかになってきたのだ。共産主義において労働とは、それが全体性の名目における道徳的な至上命令として出されて組織されるという点からいえば、資本主義体制の条件と違って、そこで個人を駆り立て強制する(内面的な道徳観のレベルでも外的な強制力のレベルでも)作用のあり方というのが、名前や名目さえ異なっているとはいえ、やはりそれが盲目的な服従概念に機械的に依存しているものであることは明らかなものであった。

2.
このような全体性と個人的な倫理化の作用におけるメカニズムとは、モダニズムの古典的な完成としての完全主義の中には特有の共通していた現象として見出されるものだ。共産主義に限らず、レーニン主義的な全体志向の発想だけではなく、ナチズムやファシズムにおける生産体制、およびそれを根拠付ける精神主義的な表層のプロパガンダのあり方というのも、やはり労働概念を至上性においた国家、全体性と労働者としての身体的個人像の関係をイメージ化したものであったのだ。ナチズムにもスターリニズムにも共通の現象として取り出されるのは、このような理想性として提示されてかつ画一的な主体化された労働者像のイメージなのだ。

労働とは生産のシンボルであり神聖概念として提示される。何者もこの神聖概念に対しては手出しできず逆らうことができない。それは共産主義の立場からもそうだし、国家的な社会主義の立場からも、キリスト教的な宗教性の立場からもそうである。命令と服従性にとっての最終的な切り札であり、根拠として、このように労働概念を神聖化する体制、および理想的な労働ということでそれに伴い主体化されてイメージとして身体化された労働者像というのが、社会の全体的な統合のシンボルとなって機能するのだ。しかしこれは資本主義社会における疎外を新たな疎外によって置き換えたものにすぎない。

この労働概念の神聖化こそはキリスト教社会とヨーロッパのシステムにとっては固有な特徴的な傾向なのである。システムの中核にあるのが労働への崇敬概念と、そして労働の受肉化された具体像であり可視的なるシンボリズムとしての身体像すなわち労働者のイメージなのである。これはヨーロッパ社会の伝統的なメカニズムであるのと同時に、そのまま近代化の具体的なモデルへと歴史の中ではそのまま進展していった。

3.
日本の場合は社会システムがこれとは異なる。むしろ日本の伝統的な社会システムでは中心的に機能する記号というのが労働ではなく、「天皇」である。そのような天皇とは弱者についての象徴的なシンボルであるということになる。弱者像(としての象徴的な天皇像)を中心に奉ることによって社会の全体的な安定のシステムをもたらす機能である。日本のシステムにとっては命令と服従性の最終的な切り札の根拠とは、この中心に据えられたゼロ記号としての弱者性なのである。ヨーロッパ社会−キリスト教システムの原動力が労働とその表象としての生産概念によって媒介された動的なシステムであり、であるがゆえにそれは社会の全体的な工場化を実現しうるのだとしたら、日本的システムの特殊性とは、弱者概念によって媒介されるが故に静的な安定性の構成にもとづく。

4.
モダニズムとは社会の全体性を工場として動かすことが出来る機能を備えている。それは社会に全体性の概念を与え実際に全体化するのと同時に、その工場的な生産性を最大限に引き出すことに貢献する。そのような機能性の美学において文化的な次元でもモダニズムとはよく機能するのだ。モダニズムのハードコアというのならば、モダニズムにおける中核的に機能する概念とは労働の事に他ならないのだろう。労働は生命や建築を含めたあらゆる人間的行為についてのメタファーとして座を占めるものとなる。故に労働への信仰心とはそのまま社会の進歩と前進への信仰であり忠誠となりうる。

5.
近代化とその人間的義務としての労働概念によって構成される社会体系に解体のメスが入るきっかけになるのは、資本主義自体の高度化であった。物質的な豊かさは同時に情報の豊かさを生み、社会的な教育のあり方の豊かさをも生む。固定的で硬直させることを旨とした義務労働の概念はその箍が緩み、人間主義的な労働者の権利の拡大、啓蒙活動の結果によって、社会と労働と個人の関係というのが、高度化に伴う社会の発展段階に応じてフレキシブルなものとなってくる。義務労働の観念(および義務教育の観念というのもそのような体系的義務のシステムの派生物であるのだが)というのは、それがとことん合理化されて節約的に考えられることができるようになってくるのか、あるいは人間と労働と義務の観念の三位一体的ともいえる結びつきの紐帯の概念さえにも、そこには懐疑の目が向けられる可能性が出てくる。

システムにとってその再生産、運営にとっての労働の意味とは、機械的なものに単純化しうると同時に、そこに内面的な意味としてそれまで見出されてきて付与されてきた隠喩的な意味付けとはどんどん薄れていく。それは科学的な認識基準の進化であるのと同時に、そのような認識論が社会的に共有されうるのは、資本主義の進化、社会体的高度化、大衆社会化の進行に拠るところが大きい。労働とは対価としての金銭的報酬のあくまでも手段であって、それ自体の意味とはあらゆる意味で形而上学に属するものであったことが社会的に明らかになり、であるが故にそのような形而上学を拒否するか受け入れるかに関わらず、労働自体についての考え方も合理的で相対的なものになる。神秘的な意味でのヴェールとはあらゆる意味で剥がされるものとなる。労働にまつわる絶対的な観念の主義からは、合理的で客観的な認識の共有によって解放されることになる。

6.
これが直接的で具体的な労働そのものにとって、果たして幸福な事態なのか不幸な事態なのか、それはケースによって分かれるだろうが。しかし労働がそこに宗教的(特にキリスト教)や世界史的(特に共産主義)な意味を担わされた特殊で聖的な実体概念であるというよりも、科学的で客観的な、社会的な枠組みの交換体系の中で為されている単純な行為であると、一歩退いたところから眺められるものとなったのだ。

そのとき神聖概念に付き物の神聖義務の概念も消滅し、労働とは交換可能な実体で、故に個人はそれを合理的に捉え返すことができ、そこから解放されることも社会的に可能になる。神聖な意味から逃れ、物と等価なものとして交換体系、交換市場にそれが流通しはじめるということは、労働についての合理的で割り切られた便宜的な捉え返しを可能にする。労働についてそのような合理的な対象化を可能にすることは、労働と個人との間に一定の客観的な距離をもうけ、精神的な意味でも物理的な意味でもそこの束縛から自由にしてくれる効果がある。

7.
資本主義の全面化の展開の結果として現れることになる、労働を対象化する合理的な事実性の認識について社会的共有というのが、まず最初に起こったのがアメリカ社会だったといえる。そしてそれはあくまでもアメリカの資本主義的合理性の追及の結果として起こっている。アメリカ人の合理主義からいえば、労働には何処までも内面的な意味はない。それは常に自由で交換可能な物質的な対象である。

あるいはもう一つ、逆の側面からいえば、あらゆる労働についての個人的で私的な思い入れを主観の自由として確保してくれるのも、アメリカ的自由のもう一側面の機能である。対象として個人の前に見出される労働についてそこから逃れていくのも自由だし、そこに自分がいかに主観的な想像(妄想)を投影するかというのも、個人的自由の範疇であるということになる。