マイケル・ジャクソンの「白く塗り潰せ !」

1.
マイケル・ジャクソンに逮捕状が出た。少年への性的虐待容疑である。マイケル・ジャクソンのこれの場合もいわゆる「セクハラ」というカテゴリーに当たるのだろうか。たぶんそれは当たるのだろう。彼を逮捕するに至るまでがどうやらマスコミ、メディアを世界的に巻き込んだ一大事件になりそうな予感だ。しかし、これは単なる芸能的な興味本位の枠を超えて、ある種、アメリカの国家的なシステムの統制的観点からいっても、非常にシンボリックな事件になるような気がする。

アメリカ人にとってセクシャリティとはどのようにあらねばならないのか、という倫理的な問題について、象徴の網目を再び捉え直そうとする大きな事件になるだろう。しかしマイケル・ジャクソンというのは芸能的なスーパースターであるのと同時に、その人間的な側面においても、或いはその非人間的な側面においても、観察すべき何かのオーラを放っているように見えるのだ。

2.
アメリカは最も自由の概念についてアナーキーに、かつ前衛的、実験的にも、自動展開する場所である。放っておけばすべての物が自由化されてしまう場所である。自由がアメリカという思想なのだ。

アメリカ的な自由の氾濫は、人間概念の最極北までも解体的に進行しうるし、その反動として、国民的なプライドとしても、再び人間概念について、枠を締め直す勢いも強力に機能する国である。いつもそういったredefineの機能を、必ず道徳的な強制力として発動する事の出来るところが、アメリカ的な自由及び国家のシステムの凄いところでもある。自由な体質も根から強ければ同時に反動勢力も強力なのだ。しかしこの性質は矛盾しているようでいて実は全く矛盾していない。そこがアメリカの不思議なところだ。この仕掛けとは一体何なのだろう?

アメリカが、外れた箍を締めなおそうとする時の強固なる姿勢と真摯な確信性というのは、観る者には恐れさえ抱かせる凄まじい表情であるものだ。アナーキーに解体してしまった人間についてイデアを再び元の保守的で典型的な人間枠というのに押し込めようとする機能も発達している。アンチノミーの機能の使い分けというのが社会機械の歴史的なシステムとしてもよく発達しているのだ。両極端を使い分けることの出来る激しさにおいて、アメリカ人は道徳的であるのと同時に動物的でヒステリックな性質の本能も失わずに兼ね備えているともいえる。アメリカにおいて、失われた人間性について矯正を掛け直す為に、いつもその歴史的で保守的な基準として呼び出されるのはキリスト教的人間観である。アメリカ国家とキリスト教の機能とは密接で不可分なものとして、機械的なる一大体系をなしている。

しかしマイケル・ジャクソンは簡単に保釈された。30分の時間で3億円の保釈金が用意された。OJシンプソンの時のような派手な捕物劇も想像したが(OJの場合は自分の女房を射殺してからカーチェイスしながら逃走していたのだから事件の性質も違うが)、わりとあっけなくマイケルは出てきた。しかし裁判はこれから本格化し公開的に催されるのだから、本当の解明はこれからだということになる。

3.
マイケル・ジャクソンについてだが、彼の音楽的な才能というのは確実なものだったと思っている。最初に僕がマイケル・ジャクソンに接したのは中学生の頃だ。ちょうどそれがマイケルがソロとして最初にブレイクしたもので、その後のスーパースター志向の展開を成功させた彼とは相当にまだイメージの違う姿だった。「今夜はドントストップ」というアルバムで全米チャート一位になって出てきたのだ。元ジャクソンズのマイケル・ジャクソン。シングルヒットには「Rock with You」とかタイトル曲の「今夜はドントストップ」など。しかしこの最初の頃のマイケルというのは、その後の大ブレイク以後のマイケルとは相当にイメージが違うと思う。健康そうに見える黒人の若者で人間らしい表情をしていた。まだ我々にとって身近でわかりやすそうな人間像、そういう写真の中の彼の姿であったようなという気持ちもする。そしてその時のマイケル・ジャクソンの音楽というのは良かった。

ディスコビートの黒人音楽として。実際に本格的に彼が「スーパースター」(思えば妙な言葉の概念だが)化してくるのは、その後85年くらいの辺りからだ。「THRILLER」や「BEAT IT」などのヒットを飛ばすが、それらは周到に大きな予算をかけて制作されたMTVのビデオクリップとして、時代の波をリードすることによって大成功に繋がっていった。(しかし僕はその時代のマイケル・ジャクソンにはもう興味がなく期待も失っていた。)

ジャクソン5という子供たちのコーラスグループから彼の音楽的キャリアは始まり既に子供の頃からメジャーで成功していた。黒人の五人兄弟で構成されたコーラスグループだ。しかしマイケルの少年時代の告白というのをドキュメント番組で聞いたことがあるのだが(たしかマイケルは五人のうちの一番下だったと思う)、実は彼の子供時代の芸能生活というのはトラウマ的なものだったそうだ。ジャクソンズがコンサートを退けてからホテルの部屋に入ると、兄弟たちは同じ部屋で寝ていた。しかし夜になると上のブラザー達はローディの女の子達を部屋に何人も呼び寄せた。恒例のようにそこでは兄弟たちで乱交パーティが行われていたのだ。マイケルにはそのような夜な夜なの乱交パーティの光景というのが、もう嫌で嫌で堪らなかったらしい。

年下だったマイケルがそこでどんな経験をしたというのだろうか。まあ想像にも難くないが、例えばそのような場面で兄貴らに玩具にされているようなマイケルの姿もあり得るだろう。例えば兄貴のモノをしゃぶらされている小さなマイケルの姿とか…。マイケルの人格的な成長過程におけるセクシャリティの形成というのは屈折したものであったのだろう。幼少時代には、物質的な成功の豊かさとは裏腹に、相当に恥辱的な人間の性的光景を見てきている。それが彼に見られる奇妙ともいえる性的交際の遍歴にも表われうるのだろう。

元からマイケルのイメージというのは、中性的な魅力、フェミニンな要素が入り混じったシャイな男性像というものだった。そのような中性的なイメージを売る事によって彼は多くの熱狂的な女性ファンを得た。マイケル自身の最初の結婚はとてもシンボリックなものだった。エルビス・プレスリーの娘と結婚したのだ。しかしその結婚は短いもので終わった。離婚してから彼は実は少年愛の性癖であるというニュースも広く知られるようになった。マイケルのそのような性質が倒錯的に見える奇行として取り上げられるのも珍しくなくなった。

しかしある時彼は突然次の婚約をしたという発表をした。それは彼が病院に入院しているときに知り合った、何の変哲もない普通の一般人の看護婦とだった。新しい女性の顔はそれで報道にも出てきたが、吃驚するような地味で太目の普通のおばさんといった風の女性だった。特別に美人でもなんでもない。セクシーな体系の女性でもなかった。彼はしかし、その女性の中に真の運命的な愛情を見出したと言った。彼女の献身的な看護の才能に感動したというのだ。そしてマイケルは自分の子供を彼女に産ませた。

4.
ベルリンのホテルの高い階の窓から、マイケル・ジャクソンはファンの声援が下から起こっているのに応えて出てきた。ふとマイケルは振り返り即座に皆に向かって自分のベイビーを披露しようとした。プライバシーの危険もちょっとは意識してか赤ん坊の顔にはタオルを被せてあったものの、窓からはそれをあまりにも即物的に突き出したのだ。赤ん坊はマイケルの腕の下で、宙ぶらりんの窓枠の外におもむろに放り出されたとき、吃驚したように足をもがきバタバタさせた。マイケルの顔には意味不明の笑みが零れているのと同時に、それは一瞬だけのパフォーマンスに終わった。その出来事は誰かのビデオに収められていたのだが映像はマスコミ的にも問題として取り上げられるものとなった。マイケルのこの行為は幼児虐待に当たるのではないかと。

マイケルがそのときホテルの階上で本当に何を考えていたのかは不明な部分が残る。頭にタオルを被さられた幼児を窓からぶら下げる仕草と、そしてそのときのマイケルの顔に浮かんだ妙な笑顔の正体とはなんだったのか。それは何か不敵な笑みでもあった。顔には目隠しをされているものの、まるで本能的に瞬時の身の危険を全身で察知したかのように、赤ん坊は強烈に動物的に、空中で空の地団駄を踏んだ。クルクルと足を空回りさせていた。マイケルはもしかしたら自分の赤ん坊を憎んでいるのではないだろうか?そんな疑念さえも抱かせる映像だった。あのときマイケルの顔から零れた笑みとはマイケル自身の内的なるサディズムの表出ではなかったのか?それは一瞬の出来事であって瞬時に赤ん坊は窓枠の背後のホテルルームの薄明かりの中へと引き摺り込まれた。