主体性論から自由論へⅡ

七十年代には既に形骸化して亡霊化していた主体性の呼び声というのは、反復強迫的な暴力的テロルの横行として社会的には表出していたといえるだろう。七十年代には暴力的な内ゲバの現象によって、過去の存在論的な亡霊というのが自己破壊的に自滅の進行を突き進んだのだ。既にそのような存在論的な意識自身の自家膠着については、実際に実現されつつある目の前の社会の多様化・複数化との間に相当の現実的なずれが生じていた。

資本主義社会の高度化はシステム自体の複数性を可能にする。そのように多様化されて自己差異化の絶え間ざる運動の最中にあっては、複数的なシステムの間に個人が存在する事を可能にする自由を許しはじめる。単元的な価値統制の可能だった社会から爛熟社会の到来に変わる。

自己−存在を賭けて「呼び声」に捉われた主体性の責念の反復強迫は依然として、実は資本主義システムの重要な歯車としても続く一方、システム同士の間からの漏出として出てくる自由な存在というのが認知されはじめる。それは資本主義社会自体の豊かさの到来によって実は可能になっている。前者のような病的ともいえる反復強迫をさしてパラノとよばれ、後者のような漏出をさしてスキゾとよばれる。浅田彰の逃走論によってスキゾは逆に積極的な自由の契機として捉え返されることになる。システムの複数性の間にあり得る漏出的存在について、そこに積極的な意義と契機(チャンス)を与えると、それは「逃走」になる。そのような資本主義システムの自己自身の細胞分裂として過渡期にあったのが八十年代の日本の光景であったといえる。それは同時に消費社会の前面化もうんだ。

日本の戦後的混沌から六十年代の高度成長期の全体的な生産体制を経て、それに対応する上部構造の精神性としての、個人はどのようにあるべしか?という主体性を巡る問いの構造からは、個人についての捉え方、問いの立て方が変化したのだ。資本主義の高度化と物質的、情報的にも豊かな社会の到来は、個人を巡る実存的な問いの立て方をも変えた。個人が全体(国家や普遍性)にとってどうあるべきなのかという主体性論的な問いから、個人が個人にとってどのようにあることが、果たして幸福なのか、正しいといえるのかという自由論的な問いへの進化である。

六十年代を中心にピークだった主体性論の論調に対して、今の自由論的な論調への変化の中で、橋渡し的な媒介となったのが、八十年代、浅田彰の逃走論であったろう。主体とは実はそう思い込まされているにすぎない、という方法的懐疑の立て方は、今では、自由とは実はそう思い込まされているにすぎない、という形式に変更された。

人間は自由の刑に処せられている、といったのはサルトルであった。自由は人間にとって社会的関係性や共同体との係わりからは無縁には存在しえないものである。そこの自覚について再主体化を決意させようとするとそれはアンガージュマンengagementの思想になる。しかしサルトルのようにはもう我々は思考することが出来ないというポイントは、自由の根拠となる個人の実在性、個人的な身体性というのは、あくまでもengageの内部にあるのではなくってengageにサブジェクトされた意識的次元の外側にしか在り得ないという事実性なのである。

そのとき社会契約的なものの考え方というのは、更に純粋化を志向しては最小化された重量に向かう。もはやアンガージュ自体の重みの重量感に酔いしれる事によってそのような自己にも陶酔するという自己意識の確認とは本当は疑わしいものなのだ。

神輿を担ぐ事から来る重量感・質感の実感主義(三島由紀夫)の時代から、現在見られるような路上を巡るダンスパーティのパレードのその自然な増殖から解散までというように、社会的な共同参加の次元は多様性を増す。以前よりもより自由な形態へと向けて模索を繰り返している。意識的に管理されて統覚化されたオルガニゼーションの自己検閲性の潔癖というよりも、空飛ぶ鳥の群れのようにも自然で直観的な欲動によって(それは動物的・勘でもありうる)、自然にいつの間にか集まってはまた自然に解散も繰り返す事が出来る、無意識としての統覚本能に基づくものだ。

我々の身体性にとって快感原則とはあくまでも受動的に訪れるものなのである。意識の能動性の部分とはあくまでもシンプルでよく洗練されたものが望ましいのだ。