主体性論から自由論へ

主体性論的な言説がいつのまにか世間から消えているように見える。それは日本の社会・世間の話である。主体性論的な言説というのは主体性によって自己を確認させるようなタイプの言い分だった。主体性的な言説とはそのまま個人の義務についての観念に関わる。sub-ject(下に−投じる)という観念は、何かの対象に従属する、従うという意味を含む。それを主体性という訳語にあてるのはなかなか真の意味を見えにくくもさせているのだろうが、これは元来、キリスト教の所有していた観念なのだ。

キリスト教的な信仰にまつわる自己を確認させる内面的でかつ儀式的な意識の形式として主体性という概念は発達した。特にこういった自己意識にとって内在的で否定性によって媒介された自己運動の図式を書いたのがヘーゲルである。元は西洋キリスト教的な観念である。しかしこれが日本に入ってきたのはいつ頃の事であろうか。

維新以後の日本の近代化の中で、近代国家の立件のための方法論が西洋からは輸入されて翻訳された。近代的な知識の体系は国民的な教育の方法論として伝播されて、資本主義的な企業的精神と、そこで働く労働力の勤勉なる労働主体の育成、そして国家国民を全体的な戦争にも動員しうる国民的な意識、ナショナリズム的な実践意識として、国民=主体という観念は日本でも西洋と同様に発達していった。

最初に近代化が行われるとき、それが特に国家主義戦争や極端に過激な資本主義競争に巻き込まれたものでないのならば、近代化および国民的な主体の育成・教育の過程というのは、穏やかに行われうる。穏やかにかつリベラルにそれが行われている過程というのはまさにカント的な過程であったはずだ。大正デモクラシーにも見られる啓蒙的でリベラルな市民意識の発達の過程である。しかしそれが帝国主義列強間の戦争のための動員として、急激かつ過激にラディカルなオルグの過程として現れ始めると、それはヘーゲル主義的な極端かつ暴力的で否定的な意識を伴う主体性意識の高揚という形態として出てきた。

主体性にこだわりそこに拘泥する意識自身がエロス的な膠着を持ちうる。ヘーゲル的な意識の自己運動の過程は(それは絶対精神にまで昇り詰めようとする)主体のエロス的な上昇過程として描写されているのだ。ナショナリズム的な全体性は主体のエロス的な自己享受の手段としても呼び出される。

主体化とは自己充溢である。意識的なレベルでの統覚化は同時に身体的なレベルでもそこに同一化させようと、更なるエロスの強度を志向する。それは知−身体−権力−共同体までを総動員させようとする強度的な高揚としてエロス化されうる。かつてそのようなものは広大な共生感とも呼ばれた。それはナショナリズム的な意識の全体的な高揚であるのか、あるいはそれのネガであり反転としての共産主義的なインターナショナリズムのエロスであった。

否定性に媒介された主体性の運動には、それ自体で立ち上がりうる内在的なエロスが宿っている。そのようなエロティシズムの観点からヘーゲルを継承したのがバタイユであった。そこでは主人と奴隷の弁証法は、まさにサディズムマゾヒズムの相克的な関係が反転を延々と繰り返す、SM的な性的主体性のゲームとして解釈される。ヘーゲルの記述した主体性の自己運動の中に潜在的に前提されていたのは社会的な性的装置だった。それは男性的なものと女性的なものが反転を繰り返す運動の中で社会的な権力装置が交替されては新陳代謝されていく過程についての、歴史的な原動力のドラマである。

承認をめぐる闘争として展開される社会性の舞台は自己意識の強度の純粋な増大を目指してはその都度、目的としての「全体性」を呼び寄せる。現世的な社会の風景としての一般性の中で権力の配分関係を革命しようとする欲望は、更なる大文字の主体的な根拠としての「普遍性」の意識を要求する。それは主体性にとっての神学的な前提として、大文字の全体性意識の中で更に内在的に深化し潜在化し、主体的な意志と欲望の次元というのを肯定的に飲み込みうるものだった。

それ自体が社会的な演劇としての見世物を上演しようとする欲望のエロス的な動機だった。神学とはまさにこのような主体の神学的エロスの享受のために呼びよせられる。そしてそれが性的ゲームの高揚のための方法論として活用されるときも、性的ゲームと神学自体の最終形態としての「性神学」のようなものを現わさせるものだ。

主体性論的な言説の形式はキリスト教というよりも共産主義の輸出によって世界中各国に拡散されたものだ。特に北朝鮮の場合はその国家哲学として主体(チュチェ)思想を標榜している。近代化的なもの、モダニズムのメカニズムの必然的な歯車でありその主役を演じるのがこのような個人と全体性の関係における主体性的な意識であった。人間は主体的に何ものかの対象Xにsubject従事しなければならないと考えること。それが全体との関係から考えられた個人の先天的なる義務であると考えられている。考えられているというよりもそのように信仰されているのだ。宗教的な機能としても。まず個人は何かの職業にサブジェクトしなければならない。あるいは何かの公認されうる社会的IDにサブジェクトしなければならない。それが個人の義務である。道徳的である事の前提的な条件である。それが人間的である事の社会的な証である等等…。

西洋キリスト教社会であればこのような教育的統制の側面を担うのは教会の役割であったのだし、共産主義国家ならば党の存在であるのだし、もっとそれを一般的に敷衍すれば学校のシステムの機能である。近代化にとって教育というのはそのような役割性として捉えられる。

サブジェクトの機能は更には社会化の安定性を図るために個人にとっての性的な体制にも支配力を及ぼす。一個の人間は自分がサブジェクトすべく性的なパートナーとしての異性対象を基本的に一つ選ばなくてはならない。結婚という制度である。それは家族の制度を安定させる事に繋がる。ひいてはそのような安定された家族制度というのが国家の基礎になりうる。安定した家族こそが国家の安定的なセキュリティ・安全と平和な繁栄の基礎となるものである。主体性の意識によって啓蒙することが理想的な社会の建設に繋がると信仰されていた時代が二十世紀の時代にはしばらく長く続いたのだ。

資本主義の発展のためにも共産主義の進行のためにもそのような主体性主義のメカニズムはよく機能したものだった。しかし資本主義社会の高度化というのはこのような形式の個人性というのを解体しはじめる。個人が全体に奉仕しなければならないという漠然とした義務観念、そして道徳についての基礎概念というのを根本的に疑い始めることを可能にする。そもそもそのような知識と道徳と更には権力と共同性との関係というのが、モダニズムという社会のシステム化にとって特有の特殊な現象であったことが理解されはじめるのだ。