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1.
「なんだ。つまりそれは、舐めたらあかん、というレベルの話かい。国家のレベルでも個人の実存でも」
「まー。。。そういうこともできるかな」
「いいじゃんか国なんて。滅びてしまえば。。。でも、そういうわけにはいかないのかな?」
「そうだな。。。」
「まず恥のない国は滅びるでしょう」
「でもね。結局プライドとは、私はそれをできる!という感覚のことなんだよ。可能性と自信の感覚のことも指している。そして価値を巡る感情のことだ。ニーチェはそれを価値感情と呼んでいたのだと思うよ。」
「だからプライドなしに人が商売や仕事をうまく為しうるなんていうことも考えられない。」
「その言葉は、信用の感覚も指しているからね。」
「ポジティブな感覚として人間の中で生きている。いわば希望の感覚とプライドの感覚は重なっている。しかし同時に人間にとってネガティブな感覚、つまり他人を差別するような感覚の中にもやはりプライドの構造が根ざしているようなことも事実だ。」
「それは人間にとって不可避な、多義的な感覚の持ちようなんだよ。。。」
「プライドとは他者の承認を求める心でもあるから。」
「そして、他者からプライドを受け取りに行く行為というのは、とても大変なことだよ。」
「それはたぶん、神聖な行為でもあるね。」
「プライドは社会的に、日々、移動し、交換されているからさ。」
2.
「ただひとつ。事実として、人間は強いからプライドを持つのではなくて、弱いからプライドを持つんだよ。」
「普通人間というのは、プライドから自由になれないよ。」
「しかし、歴史上の人物を振り返ると、この人はきっと、プライドを持つことから自由だっただろうといえる主体が、一人いるね」
「誰だいそれは?」
「イエス・キリストだよ。」
「キリストが?。。。でもそれはどういう意味だい?」
「彼は民衆の下から語ると同時に上からも語れたという。奇妙な語り方のスタイルを発明した人だね」
「キリスト自身には個人的なプライドはなかった。ただ愛があり、それは神への愛であると同時に他者への愛があったと。。。でもちょっと待って。でもそもそもイエスは人間だったのかい?」
「ははは。伝承においては少なくとも厳密にはイエスは人間とは違うな。そういえば。」
「イエスは神の子だよ。」
「神であると同時に人間であるという中間というか媒介を生きたんだな。」
3.
「イエスはきっとプライドという自意識から自由に生きれたと思う」
「だからイエスはそもそも人間じゃないって!。。。傍から見ればでもそれは狂気だからなあ。。。でもそれは後世に反映して作り上げられたただの伝承でありフィクションではないのかい?」
「そうだな。現実のイエスと見做される人物が実在したなら、彼は自意識の病にも相当悩んだはずなんだが。。。」
「もしイエスのように国家が振る舞えば、その国家は自滅するか、あるいは真に強い国家ならば、うまくプライドという奇妙に鼓舞する意識を、他の国家に譲渡することで紛争を消せるというのかい?」
「理論的にはそう信じられてきたから、キリスト教は今でも続いてきたのさ。しかしキリスト教がそれを実現できたことは、周知の通り一度もなかったよ。常にその宗教は戦争の理由になってきたさ。」
「自己犠牲というイデアの嘘ということか。。。」
「現実の人間様というのは、イエスよりも、キングコングの方にはるかに性質が近いのさ。」
「しかし、自分は神の子だと、他人から否定されても言い張るところに、イエスにとって、自分だけは特別だという、プライドにあたるとても原始的な意識の形があったのではないかい?」
「なるほど。イエス自身が自らを民衆に対して低く頭を垂れれば垂れるほど、そこには神の子としての特別な意識があったということか。ここでもやはり奇妙な特権意識を交換にして、極端な犠牲を可能にしていたんだ」