22-5

ニューヨークの市内を走っている電車にとって、それが地下鉄として地下の中を走っている区間というのはマンハッタンの島を中心にした区域であって、そこから延びる路線が郊外の方へ入ってくれば、それらは普通の電車として地上の上を走っているものとなる。通常の通勤電車のようなもので。だから僕と警官の二人を乗せて走る深夜の電車も、警官の背後に見る窓の外に開けたニューヨーク市の有様だが、真夜中なので、暗闇の中に曖昧な光のラインが続いたり途切れたり、といった意味不明な風景の流れだけを、巨大な街があるという痕跡だけを見れるというように、そこでは知ることができた。

ただ風景の存在をそこでは、感じることだけができるといったもの。肝心の風景そのものはずっと暗闇と微かな光の中に埋没したまま、列車は走っていた。

そして15分ほどの時間は、僕はこの若い背の高い白人の警察官と、車両の中で二人だけで、お互いのシートに向かい合いながら、一緒にいたものだった。もう最後の方はコミュニケーションが齟齬を来たし、お互いに続かず、何か変な顔をして二人だけ、電車の車内に取り残されたように座っていたはずだ。

僕がどうも疲れているせいか、口から出る英語がいかにも本で覚えましたというような形式張った概念語ばかりだったので、突然警官は顔つきを変え、あんたは結婚してるのか?女房はいるのか?子供はいるのか?と語り出した。

なんでそれを持つ必要があるのか?そんなことは自由であるはずではないか。だってここはアメリカだろう?僕は独り身で自由で楽しく普段から東京の近所で生きているんだよ、と答えた。するとまだ若そうに見える警官の男だが、いや男というものは、しっかり女房をもらって家族を持たなくてはならない。それで国家の為に尽くすんだと真顔で話し始めた。そこまで聞くと、やっぱこの兄ちゃんはマズイやという気持ちになってきた。しかし警官の方は、それが本気なのだ。本気でそう信じて生きてるし他人もそうしなければならないのが当然と考えている。

アメリカ人の正体というのは田舎者だと噂は聞いていたが、その田舎者ぶりがここまで本物なのかと知ると、ちょっと怖いような気もした。そういう意味ではまだ東京の警察官のほうが洗練されているのかもしれない。しかし東京の警察官は最初の瞬間に絶対にあんなに優しく語りかけてくれることもないものだ。アメリカ、そしてニューヨークといえども、まだまだ時間は止まっている。そして人々の意識の上においては、ある種時間が止まり続けていることが、同時にその国の道徳的な意識も保障する仕組みにもなっている。なんというか道徳意識の悲しさみたいな話だが、現実というのは大抵の国では、そんなレベルなのだろう。まだ若そうなのになんて保守的で進化の止まったようなアメリカ人なのだという印象だ。しかしアメリカ人というのはこれがたぶんスタンダードなレベルなのだ。特に何かがアメリカ人だからといって優れていたわけではなかった。まったく凡庸な普通の一庶民の姿だ。そしてそういう凡庸な個体の群れがはるか巨大に連なった先に、僕らがテレビの中で見るアメリカの政治家たちの姿がある。国家の姿と国民の姿。