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ニューヨーク市警の警官。上から下まで制服に身を包んだ背の高い警察官の男だった。頭に被るキャップにはNYPDの文字がしっかり入っている。そして警官の男は白人である。ここアメリカという土地の上では、いかにもという感じの白人らしい白人でしかも警察官だったとでも言おうか。その男に、JFK空港に行きたいのだが行き方がわからず困っていると僕は訊ねた。OK。それなら僕についてきなさいと、その親切心溢れるような若い警官は僕に答えて歩き出した。ホームには終電で運行の終わった車両がそのまま何台か並んで止まっている。ひと気のない静まった車両には灯りのついたままのまだ仕事が終わってほやほやのものからもうひっそりと消灯して暗く静かに眠ってしまったような車両も並んでいる。そんなホームの合間を縫って、勢いよく闊歩する元気のよい若い警察官の後を僕は着いていった。一台の電気を灯して止まっている車両の中に乗り込み、車内には僕らの他に殆ど乗客の姿は確認できなかったが、その広々とした車両のスペースを贅沢に使いきりお互いに向かい合うようにシートに座り、警官は前屈みになり、旅行者である僕のことを好奇心で見つめながら、やたら気前のよい善良な素振りをする警官で白人の男であり、彼がこのニューヨークという街にあっていわゆるいい人の部類に入るような市民の像であるには違いないと思われた。深夜の電車は動き出し、暗い車内の電灯を浴びながら、警官の男はやたら親身に僕に向かって話しかけてくるように見えた。だから僕も出来る限りのことをして、この若い白人男の善意の会話には答えてあげなくてはならないという気がしていた。しかしそれにしては僕には疲労がたまっていた。警官のする話というのは、分かりやすい話が多かった。というかいわゆる常識的な通念を改めて世間話のように確認するといった程度の、平凡な話だけという意味だ。それでもこの男が熱い警察官であることはよくわかった。しかしそうこう応答するうちに、僕は疲れていたので、ついつい本音の話が出るようになった。警官を相手に、ニューヨークの野球の話や、バスケやフットボールの話、あるいはガールズの話でもずっとしていれば、最もわかりやすかっただろう。しかし言葉の節々に、ついつい英語が不自然なことから来る抽象的な概念の語やらが僕の口から出てしまうと、なんでそんな言葉を使うのかわからないといった怪訝な顔を向こうからされてしまうような、そんなギクシャクした話にも落ちがちな状態の、電車の中の関係だった。日本から来た。東京の近所に住んでるんだ。それでニューヨークの感想はどうだい?いやアナーキーな街だったよ。こんな感じで僕は疲労の中不自然な英語を繰り出そうとするのだが、そんなところで形容詞がanarchyだとか、あるいは多様な議論が満ちているとか決定不可能な街だったとかいう意味で、contoroversyなんていう単語が僕の口から出てくると、なんでそんな変な言葉を使うんだという怪訝な顔をされて、警官の方も口が止まってしまうという様だった。一番最初に声をかけてくれたときは、やたら威勢良いほど積極的かつ攻撃的な勢いで親切に見えた警官の男だが、そういう善意の威勢のよさとは、決して長続きがするものではなく、持続可能なものではないということ。この過剰に見える初対面の親切のよさとは、警官の男にとって若さによるものだったのかもしれないが、奇妙な意気込みの仕方ということでは、アメリカ人そしてニューヨーカーの一般でもこういう空回りするような親切と元気のよさというのは、多く共有されているような気もした。

人間性がよく成熟していない地域や国では、親切の熱意も大胆なバッターの豪快な空振りのように、どこか垢抜けないものを見せるが、ニューヨークで生きている限り、このともすれば田舎者にも見られるような単純さと威勢の良さというのは、挨拶のようなものであって、決してそれは深入りするようなものではないと、人々も了解の上で、あくる日にはすぐ忘れてしまうもの、忘れてしまうような一回性の善意であって構わないということが、土地の前提として共有されているようなものなのだろう。つまりその時限りは善意の塊のように見えても、もう次の日には全く忘れていて構わないような、そういう深さのない人間関係が通常だということ。頭悪そうな国民にも見えるが、それはそれで自由な国民であるということには変わりないのだろう。忘れることが日常的で許されているが故に、自由で、うまく回転する。そういう関係性の街だ。きっとこの白人の警官の男にとって、恋愛するときもそのくらい情熱は熱くなりやすくまた冷めやすいし、忘れても構わないし、後腐れもないような、そんな人々の空間としての、ニューヨーク市警の人々の空間。そんな空間性が、彼の背後には、開けているように見えたものだ。