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夜の地下鉄に乗っていた。時間は深夜の零時前といったところ。これはニューヨークの夜ではまだまだ序の口で深い時間へは入口というところか。そのとき休日に続き跨ぐ夜ということもあって電車は混んではいないが、決して人の数が少すぎるということもなかった。適度にそのとき電車の中に人は乗っていたはずだ。しかしビジネス帰りの通勤客という時間ではなく、何か疲れたような人々が疎らに車内には散らばって座っていた。どちらかというと疲れている気な若い人が多かったように思う。そんなニューヨーク市地下鉄の夜だった。地下を電車が長く走り抜けている中で、上からは車内の照明が明る過ぎもなく暗くもなく、中途半端な設備だな、それは古びた電車の車両に見えるが決して用途に耐えないというわけでもなくと、僕は座席に腰掛けていて考えていた。とにかく何も外の景色は存在しない。暗いトンネルの中を電車は性急に車体を揺らしながら走っていた。僕の手前に座っているのは若い黒人の男だ。座席には前屈みに身を乗り出すように座っており、彼は何をやっているのかというと、ずっとその攻撃的にも見える前傾姿勢を崩さないままコミックの雑誌を読み耽っていたのだ。しかし若い黒人男は、ただ静かに漫画を読んでいるというのではなく、口はガムを噛みながら仕切りに大袈裟な咀嚼のジェスチャーを繰り返し、コミック雑誌のページを捲る度に何か呟きながら、はっきり聞こえないが吐き捨てるように何かにつけて言葉を出して、足は落ち着きなくリズミカルに揺らし、前屈みでのめり込むようにして、車内で漫画を読んでいた。雑誌を読むという行為にこんなにも孤独の様相がなく、まるでパフォーマンスのように賑やかで落ち着きがない姿というのは、傍から見て面白いといえば面白いし、また迷惑であるとえいばそれは迷惑な行為だったろう。しかしその光景こそが、いかにも深夜のニューヨークの地下鉄というに腑に落ちるイメージだった。そして電車はただ走ってるだけで何かが忙しなくうるさいのだ。僕の隣には、仕事帰りといったような女性が二、三人、黒人の女性とヒスパニックの女性だが、何か疲れたような顔つきでぼんやりと座っていた。いずれも若い女性で、それなりにこの街で生きていることの疲労感のようなものを漂わせていたかもしれない。しかしそれもまたニューヨークにおける平均的な労働者層の風景のように見えた。一人だけ賑やかで意味不明の舌打ちをしながら漫画を読んでいた黒人男は、突如立ち上がった。なんで立ち上がったのもかも意味不明だったが、相変わらず一人だけ車内で堂々としているもので、偉そうに胸を張りながら背の高い体を揺すりながら、車両と車両の連結部分に入っていった。そしてガツンと後ろ手に鉄のドアを閉めると、連絡扉のドアに大きな黄色いシャツを着た背中を向けながら、そこで立小便をはじめたのだ。電車はかなりの高速で走っていて、重い鉄の連結扉はそこで密封するように閉まっているので、ガラス窓から彼の背中は見えても放尿する音までは響いてこなかった。しかしガタンガタンという電車の鳴らすリズムの隙間には、僕の座っているところだと、かすかに激しい水を出す放尿の音は、聞き取れるような気もした。においまでこちらに流れてくるかといえば、それは鉄で出来た密閉度の高い車両なので、彼が近くに立ちながらも我々の間に妙な距離感は生じていて、姿は見えていてもそれは厳密に別の世界で起きている行為のように見えた。黒人の男は行為の最中ずっとこちらに彼の黄色いシャツを着た背中を向けていた。そして彼の長い小便は終わったようだ。電車は相変わらず高速走行を続けていて揺れている。男は、薄ら笑いを顔に浮かべて、車両の連結部分から出てきた。さすがのニューヨーク深夜か。座席に再び男は座り、また元と同じように前屈みのポーズになりコミック雑誌を読みだした。こういう時にどういう顔をしていいかわからなくなるのは、むしろ同じ場所に居合わせた他人の方というものではないのか。隣に座っている女性、黒人とヒスパニックの労働者風で、仕事帰りといった感の女性は、男が再び席に戻ってくると、視線を宙に浮かせ、顔を不安定に揺らし、それは見なかったといった風を装っているようだ。まだ若い女達の顔と首は、電車の中で不安定で不自然に揺れていた。彼女たちが気遣っているのは、そこでお互いの視線を合わせないようにしているようだ。そして僕の前の男は、相変わらず何食わぬ顔で、一人笑いもこぼしながら、コミック雑誌の世界に熱中している。凄まじい一部始終だったはずだが、何故だかここで驚きの感情というものは到来せずに。これがニューヨークのリアルというものかと、改めて僕は思っていた。