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そしてまた歩いた。イーストソーホーの奥とは歩けば歩くほど意味不明の増殖を為しているようだった。街にとってはまとまりのなさというのか、意味の分からなさというのか、とりとめもなく、文化的なものとただ無機的な生活の痕跡と、そして店舗と廃墟と、石と鉄と、冬の本来なら凍りつくような寒さの下で、計画性もなく、何かそこでは人間が活動したらしき痕跡の住居や建造物が続いているのだ。その配置の感じの意味のない感じが何かとても衝撃的だったのだ。人間というのはこんなにも無計画に、何も統一的な展望を持たなくても、ただだらだらと好き勝手に好奇心の赴くままに、街の形を増殖させてしまうようなケースもあるのかということ。そんなラフな土地が有り得た。その街の広がってしまった形の統一の無さとだらしなさのようなものには、見ていると感動してくるほどにアナーキーな好奇心の通った跡のような街並みだったのだ。住所をはっきり示してくれる標識も乏しく、自信のない足取りで歩きまわった。この街なら何が出てきても不思議ないような気もするが、しかしこれだけ自由に散乱してる有様だと、逆に中味にあたるような物も何もないのではないのかという気がしてきた。余りに自由に満ち足りているが故に逆に、この街では創造性さえ育たないでもう途中で投げ出されてしまったのではないのか?ある意味居着いてしまえば究極の居心地良さがあるのかもしれないし、逆に自由の飽和した有様に腐り切ってしまって、もうこれ以上はと反吐が出るほど飽きられて見捨てられてしまった街なのかもしれなかった。何か壊れたようなレスポールのギターが舗道に掛けられている。そこに何かの種類の店があることを示す標識のようで、ギターの掛けられた所から二階に上がるように示されているが、ただそれだけなのだ。それだけで一体何の店がそこに構えているのかは見当もつかない。投げ遣りなのか、わかる人だけが着いて来ればよいという態度の街なのか。そんな意味不明な乱雑さに紛れたストリートの所に、究極さんの言っていた店、目当てにしていたポエトリーカフェとは見つかった。