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「ねぇ。。。爆弾作ってたって本当なの?」
それは二日目の日にブルックリンからマンハッタンに向かう地下鉄の車内で僕が聞いた話だった。

「うん。・・・いやぁ・・・銀次が是非とも作ろうというもんだからさ」
究極さんは苦笑いで口を汚しながらもぐもぐとして言った。

「90年代の始め頃だった。当時はアングラの出版網で爆弾の作り方を載せた本が出回っていた。それでさ。銀次が爆弾作ろうぜっていうんだよ。オウム真理教の事件が起きる前だった。オウムの事件が起きてからそういうアングラ系の網にも警察が神経質に介入するようになったんだ。しかしその前まではけっこう爆弾の作り方みたいな本が、地下出版では出回っていたんだよ。だからそれはそれである種のマイナーなブームだったという感じかなー。」

「どんな爆弾作ってたの?」

風船爆弾とかさ」
そう言って究極さんはまた一段と弾けたように電車の座席で笑った。

風船爆弾から時限爆弾まで。アングラで購入した本にはいろいろ載ってたよ。それで銀次と、風船爆弾作ってみたんだが、でもうまくいかなかったな」
「なんか昔の日本陸軍みたいだね」
「そう。昔の日本陸軍は、戦争の終り頃本気で風船爆弾アメリカの西海岸にまで飛ばすつもりで作っていた。そういう研究の断片みたいなのが、日本の社会で、いつまでも亡霊みたいにアングラな出版網で、さ迷うように出回っていたということかな。80年代の終りも90年代もまだそういうマイナーな流れを東京の路上では目撃することができた。ちょっとした不思議な本屋みたいな空間で。」

究極さんは昔を回想するような目をしてそう語った。

「しかしオウム真理教の事件がすべてを変えたよね。オウムがサリンを撒いて以来、そういう地下的な情報の流通網にも警察が神経質に監視するようになったよ。銀次がとにかくそういうの好きでさー。彼はよくそういうの探して研究してたよ。」

「それで本気でそういうので革命的な事件が起こせると思ってたの?」

「わかんないけど。とにかくそういう流れが左翼の中にはずっとあったんだよ。アングラな形で残っていた。でもさすがの銀次でも爆弾使うところまではいかなかったな。そもそもそんな使えるような爆弾作れたわけでもなかったし」

究極さんは恥ずかしそうに答えた。

「ただなんか、爆弾は作ってみたかったと?」
「うん。そういうことなんじゃないのかな。他に特にやれることがみつからない場合だ。暇な左翼の若者がそういう方向に妄想的に埋没するということはありうると思う。でもそれもオウム事件の前という、明確な時代的刻印が読み取れる傾向性だった。」

「地下活動と爆弾製造の文化というのは思えば歴史も古そうだよなあ。戦後日本がGHQに解放されたような時代から、もうそういう地下的水脈は黙々と続いていたというような気もするな。そもそも日本共産党山村工作隊やってたのだって50年代のことでしょう。戦中に日本軍が開発していた技術が漏れて戦後はアングラ文化の中になんとなく続いていた。しかしそれもオウム事件の徹底的な摘発によってやっと終了したということだったのか。銀次の世代まではまだそういう文化に跨っていたんだな。・・・」

「そもそもベルリンにいって本場のアナーキストがやってるアウトノミアやスクワットハウスを見たいといって連れてってくれたのも銀次だった。銀次はだから海外旅行が好きでよく見に行ってるんだ。」

そして銀次という僕らにとっては不思議な仲介者の話になったのだ。
「ベルリンでアナーキストのデモに参加する。すると最後のほうでよくそれが暴動に発展するから。暴動になってもずっと銀次は後を追っかけていって、路上に止まってるベンツに、一緒に放火して逃げたりと。よくそういう話をしてくれたよ」

「そういうパターンもある種路上には左翼文化のパターンの流れとして、ずっと残っていたわけだ」

「そう。でもそれがオウムの事件ですべてが変わった。少なくとも日本ではそれ以来変わってしまったんだ。」

昼過ぎの時刻を走る地下鉄で座席に座り、僕と究極Q太郎はずっとそういう話を日本語で話していた。車内の人は都心に近づくに連れて中途半端に人が多かった。やがて地下鉄はマンハッタンに入る前は地上を走りそれは普通の電車に昼に乗ってるのと同じ状態だ。天気の感じは曇りの中で中途半端に光が差していて優柔不断でいつまでもよくわからないような空の按配だった。車内に差し込む中途半端な光も何か焦れったく、しかも車内は妙に湿っぽく不快な混み方をしていて、外の空気は寒く、車内の空気は半端に暑く、しかもニューヨークの電車の規格は東京で走ってるものよりも一回り小さくて狭いので、そんな車内に、駅に止まるごと人が多く乗ってくると、不快の感度もひたすら増大するばかりだったのだ。何か不快な汗を掻かざるえないような電車内だった。そして乗っている人々はみな憂鬱な顔をしてる気がしていた。そんな中を、隣の車両からドアをいちいちあけながら、一人のまだ若い青年が来た。服装は上下に青いデニムのジーンズで包んでいた。黒ではなく着ていたのはよく見れば青いジーンズだったということ。彼は埃に塗れたような汚いなりをしているが電車の中を横に横断しながらやってきた。車内は中途半端に混んでいるので、そういう移動の仕方をする人が必ずしも迷惑でないということでもない。しかしその青年は素早い動きをしながら横へ車内に座っている人々に話しかけながらずっと移動してきた。僕らの座ってる前にも彼はやって来て、そして僕らの反応を目で確かめると咄嗟に去っていた。彼がその素早い仕種で、僕らに向かって提示したものとは、ビニールに包まれた乾電池の束だった。電車の中を移動する男は、乾電池の束を1ドルで売って歩いていたのだ。

「あれってニューヨークにいる乞食の一種かい?」
男が波のように素早く通りすぎていった後で、僕は振り返って聞いた。

「なんか懐かしい気がするなー」
究極さんも後を首で振り返りながら答えた。

「でも乞食というからには、もっと何も自分では与えることができないで、道行く人にお金を乞うというスタイルのことを言うんじゃないのかなあ。彼は少なくとも乾電池を売ってるわけだから。厳密には乞食と言えるんだろうか?」

「しかしああいうスタイルって、日本でも昔はよく見かけなかったかい?僕らが子供の頃、60年代から70年代にかけての時代は、日本にもよくああいう人がいたように覚えているよ。」

「うん。そういえば日本もそういう感じだったかな。その時期には新宿や池袋の駅前にいけば露骨に乞食といいうるような人が普通にいたかもしれないな。」

「乾電池を安く売って歩くというスタイルが、この街ではホームレスの行動スタイルとして、出来上がっているものがあるということだな。だからもちろん、あの乾電池を元手で捌いている上の業者の存在があるということだ。しかしそれはそういう物売りにしては余りにも古典的なスタイルだ。」

「しかし日本って、いつのまにか乞食の姿って見かけなくなったよ。街を歩いていて物乞いを見かけるなんていう風景は、まず今の日本でないね。」

「英語で言えばbeggerか。そもそも乞食という言葉自体が、もう過去のもので消えてしまったのかもしれないよ」
「でも、それはあくまでも日本の話でしょう?」
「うん。そうだ。あくまでも日本のことだ。」

いわばニューヨークの電車内で僕らが見かけたのは、乞食の境界線に生じる古典的な物乞いとでもいうようなものだったのだろう。