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究極Q太郎と呼んできた人物だが、彼にはもちろんもっと普通の日本人の名前があった。彼の出身は埼玉県である。もともとペンネームが嵩じてそう云われ彼自身自称することが多くなった名前だが、自分の本名のほうに拘りを持っていないというのは、きっとそういう彼の生い立ちからすると自然な事なのだろうという気がしていた。若い頃にやったことで彼と僕に共通の事件があって、それは浪人してる時代に新聞配達の住み込みをやったことがあるということだった。僕の場合は18歳の頃に、身体的に自己を鍛えるという営みに何か妙な執着があって、浪人生にはよく陥りがちな精神的な迷宮というか、ノイローゼのようなものを超越せんとして、時に衝動的な気持ちもあいまって、家を出て新聞配達の住み込みを、特に都会の、東京の真中でやってみたいという欲望が起きた。僕はそれで三ヶ月ほどの期間を目黒の大鳥神社前にある朝日新聞でやってやめたものだった。つまり新聞配達の住み込みは三ヶ月は続いた。三ヶ月は頑張ったということである。僕が新聞屋をやめるときはそれなりに辞表のようなものまでをわざわざ書いて店と喧嘩して出ていったものだった。それに対して究極さんの場合は、三週間でやめたらしい。特に究極さんの場合は、やめるときは本当に夜逃げをした。つまりその職場と充てがわれたアパートを夜中にこっそり逃げだしたんだと語っていた。究極さんは高井戸の新聞屋で働いていたそうである。そこで十代終りの時期に、自分は本物の夜逃げという体験をしたんだと語っていた。

究極さんの出身地は埼玉の加須だった。埼玉県の北部といっても、大宮と群馬県の真中ぐらいにあたる場所であり、中途半端な地域ではあるが、立派に都心部への通勤圏でもあった。ただ彼の場合、実家の込み入った事情で、子供の時分から何か不安な精神を抱えていたのだという。彼の父親は加須から池袋まで大手の製菓会社に通うサラリーマンであったが、母親は継母であり下には母親の違う弟と妹がいた。ここで究極さんは子供の頃から家族のコミュニケーションに悩んでいたという。結果彼は、自分の居場所に悩んでおり、家出をしたい、早く家を出たいという願望が昔から強かったのだという。彼は大学に入ってから一人暮らしするも数年して中退したときは、本当にもう住む場所がなくなってしまった。大学は中退しホームレスと同然の状態になってしまった。彼には自分の実家に頼るという発想はなかったし、むしろ憎んでいた。だから彼は、友人の家に住まわせてもらって渡り歩いたり、最も安い物件を見つけて入居したりと、綱渡りのように住居も移動し仕事も次々と探して歩くというライフスタイルが普通のこととなった。そういう彼が路上の左翼と親しくなりそういう生活の中で詩や文章を書き続け、仲間たちと同人誌を作り、ミニコミを売ってみたりというライフスタイルが定着したというのは、自然な流れだったのだ。東京の路上や片隅に散らばるように80年代散在していた左翼的活動の生態と親しくなり、そういうアンダーグラウンドな左翼に根拠を持ちながら生きてきた彼は、一つ夢を持っていて、それは左翼たちが広く集えるようなカフェを作ってやってみたいということだった。

究極さんは行動力のある人だったので、そのプランはやがて実現した。最初にそれで作った店は、新大久保の古いビルの一角に作ったカフェだった。それは「La Viento」という名前のカフェだった。店の名前もけっこう頑張って考え抜いてつけたようだった。あえてスパニッシュで呼ぶ名前をつけたが日本語でいえば「生」である。その名も、シンプルな、生。それだけ。元にあった店のオーナーは、知り合いでそこで前から食堂をやっていたおばさんだったのだが、究極さんが店の営業を引き受け、新装開店することになった。その新大久保のおばさんも辿っていけば、究極さんが関わっていた、アングラでインディペンダントな表現系で何かをやっていて知り合ったおばさんだった。何かというのは大体、バンド活動だとか、パフォーマンスだとか、詩の朗読会とか、文芸とか、同人誌、ミニコミの世界の繋がりだったはずだ。新大久保の通りを少し歩いて行って入った雑居ビルの二階にラ・ヴィエントはオープンした。しかし、ラ・ヴィエントの営業は長くは続かなかった。二ヶ月でうまくいかなくなり究極さんは店を撤退することとなった。僕は二回ほどそこは訪れたことがあったが、最初の時は開店当初で、夜に夕食をそこで取り、僕が座っている間にも次々と左翼の知っている人々が訪れ、普通の居酒屋ができたのかと思ったが、数カ月後に僕がそこを昼過ぎに訪れたときには、もう店は撤退した後で、空のようになった居酒屋の物陰を残しながらも、頭を茶色に染めたティーンエイジャーの男女が数人で、何か全く世界の異なるような雑談をしているだけだった。そこにいた十代のぶらぶらしてるような、そこに佇む異星人のように見えた男女たちは、オーナーのおばさんの息子とその友達といったところだ。あれは薄寒い昼下がりで角度の低く差し込む日の光だけで、行ってみたら電気も暖房もついてない部屋に、髪を逆立てた脳天気な若者だけが駄弁っていた。そこにもう食堂の気配はなかった。本当に寒々しい風景であり、季節は12月の終りだったろうか。東京の中心部であるがその街を貧しさという下の角度から写し取ったらあんな絵が出来上がるのだろうかというもの。

究極さんは最初にラ・ヴィエントという店を試みて失敗した。しかしそれで彼は諦めなかった。彼は左翼の集合所としての彼自身の暖めていた立派なコンセプトがあったからだ。ラ・ヴィエント閉店から数カ月後に、究極さんのもとには新しい物件が仲間たちの伝から入っていた。こんどは立地が西早稲田で古い喫茶店の委託で、隣には大学の文学部がすぐあるという。究極さんは再びコンセプトのカフェをそこで開店することにしたのだ。開店には路上の左翼仲間たちの伝で聞いてきた人々が、多く手伝ってくれた。