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とっても小便したいんだがと思いながら誰もいない通りを突き進んで歩いた。誰もいないし見ていないのだからそこで立小便したらどうかとも思われるが、しかし僕をこの時捉えていた想念とは、このひと気なさは本当はかなり怖いものだぞということだった。本当に、ゴーストタウンのようになった旧ワールドトレードセンター跡地周辺の夜とは、何もないし誰もいない。街自体がもう死んだように静まり返っている。ここで暴漢にでも襲われようならもう防ぎようがないのだ。声を上げたとしてもそれを聞いてくれる人がいるかどうかも定かでない。しかし間違いなくここは大都会の一画であり、周りは鉄か石でできたビルディングで取り囲まれている。しかし休日の寒い雪まじりの雨が降っている夜中とあっては、まさにゴーストタウンの有様になっているのだ。あの巨大なテロリズムの事故が起こったからそれ以来この街はこういう状態になってしまったのかもしれない。その前がどうだったのかまでは僕は知らない。もしここの通りで僕が立ちションをしていて後ろから何者かに襲われることを想像したら余りにも無防備だ。しかもすぐ背後に控えているのが、夜の中の寂しいハドソン川河口だということも承知している。よくニューヨークを舞台にしたギャングの映画などで、人知れず海か巨大河川の岸壁に殺した人間の死体を捨てにいくなんていう話があるではないか。ここで不意に刺されるか撃たれるかして僕の死体をハドソン川から海に捨てに行けば、それは誰にも目撃されず余りにも簡単に完全犯罪が成立しそうなものだ。そう。これがニューヨークの怖さなのだ。だんだん僕にもそれがわかってきた。

少し先までいけばもう繁華街の明るいネオンに守られていることは分かっているものの、ちょっと外れた区域では、このように全く無防備に危険に晒されているという、街の濃淡の極端さ、これがニューヨーク的であり、アメリカ的な大胆さなのだ。ひたすら歩いた。どんどん早足で歩いて行った。それでも街灯の曖昧な光が適当に通りを照らしていることはせめてもの救いだった。人間の姿は皆無でもここが真っ暗闇であるよりはまだましだったのだ。さてこの辺りでどういうやり方なら安全な立ち小便が可能だろうかとずっと考えていた。東京の街並みなら、夜中のひと気のない時間帯に僕ならどうやるかといえば、ビルとビルの隙間を見つけながらそれができそうな場所を探すことだろう。もし東京の都会で夜中の暗闇に紛れて立小便がしたくなったのなら、まずビルとビルの隙間を探してください。これなら僕がアドバイスできる。ビルの隙間でうまく事を済ませて立ち去る。これが都心部におけるスマートな立小便の方法論だ。ところがニューヨークのビルの建ち並び方を見たとき、ビルとビルの隙間というのが全然ないことに気づいたのだ。ビルの間の空間は見事に埋められている。そのようにしてビルはぎっしりと建てられている。これは一体どういうことかと考えたが、要するにビルの隙間があるとそこが犯罪に利用される可能性というのをあらかじめニューヨークの人々は知り抜いているので、あえてそういう無駄な空間を作らないで排除したのではないかということだ。本当に見事に、通りをずっと探し歩いて、うまく事が済ませそうな微妙な空間というのが、ここでは一切存在しないのだ。しかしこの建て方は防災上問題があるのではないか?そんな気もしてやまないものだ。これでは一個のビルが火事になれば確実に隣のビルに火が移ってしまうだろう。隙間がないということは一切そこで余裕がないということでもある。たぶん東京では防災上の配慮もあって、ビルとビルは小さくても間隔をあけている。しかしニューヨークに至ってはそういう配慮が一切ないのだ。これはこれで何か無慈悲な感じさえしてくる。そういう余裕の無さで、ぎっしりとビルは並んで詰められていた。必死の早足でここから逃げるように冷汗かきながら歩き続けていた。