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ニューヨーク市立図書館のビルでエレベーターを使って上っていった。ここは幾分か古臭さの目立つビルだが普通の近代的なビルでありエレベーターも今まで見たような半端なものではなく普通だった。センスとしては70年代のセンスで作られているビルだろうか。70年代にこのビルと出会えば素敵だと思う。しかし90年代の頃にはもう古臭く暗いビルに思えている。そんな風な建築の基準か。利用者の混み具合は休日といえどもそんなに大したことはないと思う。適度に隙間がありフロアの隅には静けさがあり席は程よく空いていて座るのに隣の利用者とは距離を十分に取りうる。そんな具合の按配にある休日の市立図書館だった。大きな図書館の一つであるがフロアによって本のジャンルが分かれている。このビルの五階あたりがどうやら哲学書を置くフロアみたいなのでそこを目指して上っていった。エレベーターの扉が開きフロアに歩み出るとそこも人の密度は適度という感じで、決して神経を使うような配慮に気を使う必要はなさそうであり、居心地の良さげな暗い光の中で、広がるテーブルと本棚の存在は調和した空気の中にあった。フロアの脇にはコンピューター端末の検索システムが置いてあった。

特に意味もなく最初に検索システムの前に座ってみた。それでも何をそこでしたらよいのかわからないで座っているのだが、試しに日本語の本はここにどのようなものがあるのか調べてみた。試しに「akira asada」と打ってみる。よく見た雑誌数冊のタイトルとともに本のタイトルが画面に出てきた。それなりに日本の情報は不自由なくニューヨークの街と繋がっているようだと確認した。特に意味もない安心に似た感じを得た。近代哲学の置いてある棚を見て、そこでまだ日本では未訳の名前も聞いたことのないような、しかしパブリッシャーは日本の紀伊国屋でもよく見たことの覚えがある本を拾ってみた。何やらデリダハイデガーについて論じている批評書であるみたいだ。本を手にして中央の大きなテーブルが川の字に並ぶ場所まで持って行って自分の席を確保した。しばらくこうして時間が潰せる。少し前の方のテーブルに、車椅子に乗った女の子を押した白人の年配男性が席を取りにやってきた。親子であるようで、車椅子の女の子と隣同士で着席し、小声で時折何か会話を交わす気配を見せながら、白人の親子は並んでそこで読書をはじめた。そこは少し遠くの細長いテーブルであり、テーブルの下では10代ぐらいの年頃だろう女の子の腰から下には、両足を失っている状態であるのが、そこにある暗い陥没した空間の光具合で確認された。父親は白髪だがまだ元気のよさげな若さを体型からにおわせており、頻繁に本棚との間を往復しては、女の子の注文を聞いていたのだ。ニューヨーク市立図書館の哲学用フロアで、この親子の間には何一つ不幸のイメージを感じないことに、不思議な感銘を受けていた。何かニューヨークのイメージに相応しい平常心の強さみたいなものが、そのハンディキャップを少しもハンディキャップに感じさせない佇まいの中には光っていたのだ。

そうしてしばらく英語の批評書をパラパラと、ページの間を行ったり来たりを繰り返しながら読んでいた。本棚の奥には窓の光が差し込んでいる。わりと高層なビルの図書館であり、このフロアからはマンハッタンの中心が大きく見渡せるような感じだった。空の色は曇り具合のグレーを帯びてきているだろうか。英語を読んでいて目が疲れ、フロアの窓際へと、本棚の間を抜けて、歩いていった。市立図書館のビルよりも高いビルディングがマンハッタンには密集してる中なので、すべてがここから見晴らせるというわけではない。もっと巨大な幾つものビルによって多くは空の景観を遮られている。そして空の具合は曇りがちな湿った気配も押し寄せている。さっきまでは暑いほどよく晴れていた空だが三月の不安定な調子を午後の時間にかけて匂わせていた。目を落としてストリートを覗くと、はるか下方にデモの巨大な隊列はまだ顕在で、どこまでも人々が連なって歩き移動していく群れの姿が幾つも確認された。そしてそこから目を上げると、隣のビルが迫るように立っていて、向こうのビルの中に動く人の姿まで確認される。ふとそこで振り返ると、本棚と本棚の間で、大柄の黒人男がトランシーバーを片手に、何やら下方のデモの群衆を気にしながら、時折小声で連絡を取っているのだ。黒人の男はスーツに身を固めているが、シビアな目付きで周囲を伺うように気にする素振りを見せながら、時折トランシーバーを耳に当て、そして少し話すとさっとそのトランシーバーを上着のポケットに忍ばせ隠すという動作を繰り返していた。公安警察の男である。僕にはすぐ事情がわかったが、市立図書館の上方からも、ニューヨークの警察はデモ隊を監視しており、何か不審な動きを発見すれば即座に連絡できる体制で、今日という休日の巨大イベントに臨んでいるのだ。