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「それで・・・なんで吉野家で食いたいんだっけ?」

究極さんが疲れたような顔をして言った。

「だから・・・狂牛病の問題で。今日本じゃ牛丼食えなくなったじゃないか。だからもう久しく食ってないよ。牛丼なんて。」

「それで吉野家なの?日本で食うのは松屋じゃだめなかい」

松屋吉野家では圧倒的に味が違うでしょう。時々その味の違いがわからないやつがいるよ。松屋は値段が安くてしかも味噌汁までついてるのに、吉野家はおかしいとか言ってる人もいる。でもそういう人は基本的に味のわからない人だよ。明らかに味が違う。吉野家は。この味の違いがわからない人間は悲しいと思うよ。」

僕らはビーフボウルの皿をトレイに受け取って、そこではいかにもファーストフード的な安っぽくカラフルな色で塗られたテーブルについた。ニューヨークを三月に訪れた2004年の年とは、たしかにBSE問題といわれたが、意味不明に牛が狂ってしまってまともに立てなくなってしまうという狂牛病の映像が、テレビニュースでは盛んに流れ続けていた。

「テレビで見たかい?狂った牛の姿を」

大雑把な牛肉の載った丸い皿をフォークでかきわけながら僕は言った。

「うん。牛が狂っていく映像はもう何度も見たよ。牛が普通に歩こうとするんだけど歩けないで倒れこんでしまう。そして牛は立ち上がろうと藻掻いてるんだがどうしても再び立ち上がれない。そういう映像だ。日本でぼくらはメディアに包囲されて生きてるわけだからどうしてもそれは見てしまう。何度も何度も見てしまう。まるでコントロールされてるみたいに見てしまうよ。」

「それで、狂った牛の肉を食ったら、食った人間のほうまで狂ってしまうというのは本当なのかい?」

「いやそれはまだ実は疑わしいな。たしか牛肉食って狂いましたというニュースは出ていないよ」

「そういう実例がないのに日本はみんな米国産牛肉を禁止してしまったのかい」

「そういうことだな。人間が感染しなくても日本の牛が感染するかもしれないし」

「国家的な警戒感か。まーしかしそれはしょうがない現象なのかなあ。日本とアメリカがもし逆の立場だったら、アメリカ人だってそういう集団ヒステリーに感染する可能性は十分あるでしょう。国家的に一丸となって集団的アレルギーが起きてしまうことは、どこの国でもありうるよ」

「それにしてもアメリカ人は平気で食ってるじゃない。アメリカの牛肉を」

究極さんはフォークをざっと振り回して、周囲の席で食べているアメリカの人々を指してみた。しかしだからといって日本語で会話してる僕らがどういう意味でポーズをとっているのか、まず周りのファーストフード的環境の中でだらけきったように飯を食べている人々には全くわからなかっただろう。

吉野家は米国産の牛肉にこだわってる。米国産でなければ独自のレシピで自分の味が出せないと言うんだよ。テレビに出てくる白髪の社長がそう喋ってたよ。」

松屋すき家も材料には妥協してオージー産の牛肉で間に合わせるけど、吉野家だけはそれじゃだめだというのか。大したプライドだね。」

「そう。それは吉野家のプライドだよ。吉野家は老舗じゃないか。江戸っ子気質というのも社風に生きてるのかもしれない。テレビに出てくる吉野家の社長はそういう意味では粋を感じさせているような人物だった。」

「物を作るにも売るにもそこにはプライドが機能してるというわけか」

「いや。逆に全くプライドなく、見境なく物を作って売りさばく企業だってあるよ。それもまた資本主義の条件なんだから」

「ということは、資本主義では、商品とは、プライドをもって売られているか、或いは逆に、全くプライドも見境もなくとにかく売られているか、その二つあるということだよな」

「どっちが資本主義にとって本質的なのさ」

「いや。プライドある人々とプライドない人々と、どっちも資本主義の全体は必要とするんだと思うよ。その全体をもって、商品のヴァリエーション、そしてグラディエーションは構成されている。」

特に賑わっているとも思えない、休日にしては中途半端な人入りのマンハッタンにある吉野家USAの店内で、他にいるアメリカ人の客達も特に有難がってい食べているという気配は全くしない、少々ドギツイ色をした牛丼のボウルを突きながら僕らは食べていた。そこで食べれば食べるほど、究極さんだけでなく最初に誘った僕の方も、牛丼が特に有難いという気持ちはもう消えてなくなっていくようだった。アメリカで出てくる料理のご多分にもれず、ここの牛丼も味としては随分大雑把なものだった。しかしそれでも噛み締めて食えば奥の方に日本で食べていたのと同じあの味は確認されることはできたものの。