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結局周りの見知らぬ人々へは特に声をかけることもなく僕らは交流スペースのブレヒトフォーラムを後にした。ビルを出て暗い夜道を僕らのホテルがある方へと向かっていた。四方八方をビルディングの高い建物で囲まれたコンクリートの街といっても、夜になると見事なほどに人間の気配はなくなるし、特に親切な電灯に道筋が恵まれているわけでもない。本当に夜になって人間達の活動が退けるとものの見事に死んだように静まり返ってしまうような街並みなのだ。あるいは人の集まる場所と集まらない場所のギャップが驚くほどはっきりとしてある街というべきか。人の来ないほうでは、それこそどんな犯罪に巻き込まれてもおかしくないか、やられていても助けに見つけてもらうのを絶望するしかないような、そんな無慈悲の、鉄とコンクリートアスファルトの街である。この異様な寂しさと無慈悲性の予感において、アメリカの大都市というか、ニューヨークの本質を見事に、沈黙の中で示しているような街並みだったのだ。

帰り道に歩きながら幾つか究極Q太郎と本質的な話を交わした。

「ところで究極さんは、ロブ・グリエの小説はどうなんだい?飯塚くんはなんだか嫌いなみたいだったけど」

飯塚くんは、あくまでも空想的社会主義の専門家であって、小難しい文学に傾倒するような趣味はなかったのかもしれないが、どうも昨夜に、村田さんのバーで話したときの飯塚くんの妙な顔つきが記憶の残像に残っていて、そのイメージが忘れられなくなって、僕は究極さんに聞いてみた。

「昨日のイーストソーホーのバーで、飯塚くんにロブ・グリエの小説の話を振ったら、いい顔してなかったよね。彼は。」

「ああ。ニューヨーク革命計画という小説の話か」

「でも決して彼はその小説のことを知らないというふうではなかったわけだが」

「ロブ・グリエか。・・・ぼくはけっこう好きだよ。あの小説」

究極さんは透明な表情で、素直に意見を返してくれた。素直な表情は、路上に照らす薄い街灯の光でもはっきりとわかった。

「ロブ・グリエだったら、ぼくはあの最初に日本で翻訳が出た小説。『嫉妬』という小説が好きなんだよ。それはもう、何度同じ小説を読み返したことかわからないほどだ。最初の日本語訳が出版されたのはもう60年代のことか。当初は新しい種類の小説ということで日本でも話題になったらしい。」

この薄暗い路上にあって、究極さんは彼の文学について思っていることを親切に語ってくれそうな予感がした。

「ぼくはあの小説で何をやろうとしているのか。とてもよくわかると思うんだ」

「あれは実験的な小説だと思われてる。何かちょっとした工夫した読み方が、ああいう小説を対象として前にした場合、必要だということかい」

「うん。まず空間を言葉で最大限純粋に描写しようとすると、どういうことが起きるかという問題があるよね。あの小説に接するときに。小説というのも何か空間を再現するものなんだ。しかしその手段がちょっとばかし癖のある代物であるわけであって、言葉だけの純粋な構築として、何か記憶の中の、人間的な空間を再現する必要に迫られている。そういう時に、あのスタイルが出てくるんだと思うよ。」

「まるで言葉を単位にして、記憶の中の空間を呼び寄せながら、そこに縦横の座標軸と時間の奥行の座標軸まで、数学的に綺麗に区画を作りながら切り取っていくような文体だよね。奇妙な、しかし内的な正確さを志したような幾何学の規則的な把握の構造を、その都度、記憶と事件と人物の中に投影して、当てはめていくような小説だった。」

「うん。それは決して意味のない試みだとは思わない。でも自分がそうやって言葉を武器にして純粋に試みてることを、他人に伝えるのは、ちょっと難しい。というかその試みには、伝達という意味でも、理解という意味でも、時間がかかるかもしれないね。」

ビルとビルの狭間を僕らは歩きながら、ときおり横断歩道の列も跨いで歩いた。道はだんだんチェルシーの光に近づいている。

「ロブ・グリエの小説が日本に紹介されたのはけっこう前のことだけど、その後の十年、二十年という間隔を経て、ロブ・グリエの作った映画というのも日本で見れるようになった。ぼくはあの映画も相当好きなんだ。映画においてもロブ・グリエのやっていることは全く同じことだよ。というか、ぼくにとって好みのタイプの映画なんだな。ああいうのが。」

「しかし、気が付かないでいるときは、その試みの総体が、ひたすら退屈で意味不明なことやってるように見えるということかい。言葉においても映像においても。」

「いや確かに意味はないのかしれないよ。大衆的な意味でも、商品としても。そういう作品は。けど意味はないと思うならそれなりに、その種の作品に対しては、おもいきった態度で逆に鑑賞してみることができるのではないだろうか。」

「おもいきった態度の鑑賞って?」

「いやだからさ。意味わかんない小説なら、それを逆さにして終わりから読んでみるとかさ。タテヨコナナメどんな読み方をしてもいいんだ。しょせん小説の正体だって一個の物質であり、物体であり、身体なんだからさ。」

歩きながら言葉は特に滞ることなく究極さんは、澄んだ表情で語っていた。

「映画だったら、はじめから見ないでいいから、自分の見たいように順序も内容もバラバラにしながら好き勝手に見てみる。そしてできれば何度か繰り返し好き勝手に流しっぱなしを試みて、複数繰り返しながら結果的に全体を全部目に通せるような体制で見てみるとかさ。」

「視線の在り方も、視線の態度も、全部ランダムに変えてやる。組み替えてやるということだね。鑑賞の態度としても。」

「そうそう。それがアナーキーな態度の革命なんだよ。」

「あるいは、それが真のアナーキズムであり、真のアナーキズムにとって序章になる訓練の行為、とでも言うべきかな?」

「ロブ・グリエにこそ、真のアナーキズムの鍵がありき、か。」

繁華街の煌々とした光の筋はもう近かった。道の両側にも、人の往来を多く告げる安心感も強まっていた。死んだコンクリートのブロックから生きたコンクリートのブロックまで、僕らは歩いて継いできたような気持ちだった。