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失踪する、消滅する、蒸発する、突然いなくなる、夜逃げする、…。人が急に消えていなくなることについて、世間の言い方は色々あるだろう。究極Q太郎が突然いなくなってしまったことについて、どのように表現すればよいのかいまだ言い方に迷うものだ。何か思いつめたことがあってそれはいなくなったのかもしれないし、もうそこの場所においては何も考えたくないから出ていったのかもしれない。一人の存在、身の上において、何かの限界が来て、そこで関係性は飽和を迎え、もうこれ以上続けていくことが出来なくなった。

それならばそれでいいではないか。元々アナーキストも左翼も、論理的な無理の上に、社会の中でぎりぎりの居場所を持ち、続いてきたものなのだ。アナーキスト形而上学というものが、その世界の成り立ちにしても、掟としても、確かにあり、それ自身が存続していくためには、やはり内部において様々な要素を捨てていくしかないものであり、実際、現実的な左翼の生態とはそういうものなのだ。社会の中で常に一時的に開いているポケットのような受け皿が、左翼の生態性であり、その生態が自己をもっと安らいで生きて行けるようにと、彼は大雑把で雑種的な交流を目的に掲げた居酒屋を作り上げ、それは西早稲田の片隅で実際に機能し、小さいものだがささやかな繁栄をもたらしたこともあった。しかし、流れのピークとして、その場所はもうきっと終わりに近づいていたのだ。