12-1

アストロプレイスという地下鉄駅で電車を待っていた。深夜の零時になるかならないかという時刻だったが、散々ニューヨークの街中を歩きまわって疲労が溜まってきた僕らは、早目に日本人居酒屋での飲みを切り上げて出てきたのだ。今夜の宿は村田さんのアパートである。村田さんは店の仕事が退けてから、朝方飯塚くんと一緒に帰るという。僕らは彼女から、あの重たいアパートの鍵の束を受け取り、僕らだけ先に帰ろうということなのだ。アストロプレイスはイーストソーホーの中核的な部分に構える地下鉄駅で、これまで見てきた他のニューヨーク市内の地下鉄駅と比べたらまた随分とお洒落で、落ち着きを持ったような渋い空気を湛えた、地下の駅構内だった。薄く橙色の光が静かに渋く照らし出している地下鉄駅の構内は、人は疎らであるものの、まだ夜の興奮の残り香のようなものが漂っていて、時折通りすぎるのは若くてお洒落な井出達の人々であり、また僕らが小さなベンチに腰掛けている向こう側のホームでは、黒人のおじさんが一人、アコースティックギターで、何か自作の曲のようなものをずっと弾き語りして歌っていた。そんな地下鉄駅の構内である。僕らの足元には、渋くて控え目の暗い橙色の光がホームの周囲を照らし出している。黒人男の歌声だけが、スローテンポで、繰り返し同じメロディのラインで、低く重く通る声で、伽藍としているが清潔な構内に、響き渡っている。ここで誰もそのおじさんのダミ声の歌を不快と思うものはいないだろう。しゃがれた声だが、おじさんの声は、優しく、無防備で、そして楽観的である。いい味を出している歌である。あの人がこの味に辿り着くまでけっこうな年月がかかってるのかもしれないが。熟成されたしわがれた歌声である。そしてやたらスローで、くどいほど反復的だ。ここは街の中でもある種平和な一角なのだ。駅の中も珍しくきれいだ。ベンチに腰掛けながら究極さんが言った。

「どこの国のどんな都市でも、人間の行動パターンというのは大体同じものだということが今日はわかったよ。」

「その通りだ。大体どこの都市でも、ぶらぶらしてる人々は一箇所に溜まってだらっとしてるもんだね。」

「ぼくらが西早稲田で開いてる交流居酒屋と変わらないよ。ぼくは東京の一角で、ぶらぶらして行き場のないような人々にとって、交流というコンセプトで集えるような居酒屋を、仲間たちと作ったんだ。どこの都市に行っても、暇な人が考えつくようなコンセプトというのは、大体似たようなもんなんだろう。そして実はそういう場所が、最も切実に、都市の一角では必要とされている。」

「あの空間に入った時、一瞬ここは時間が止まっているのかと思ったよ。しかしそういう脱力を可能にするような交流の場所では、時間は進みもしないし止まりもしないんだ。時間がただただそこでゆっくりと滞在することを許されている。許容されているという感じの落ち着きと寛容さがある。そういう場所を作ることは、必要であり、時に努力を必要とするけど、実際には自然発生的に、どこにいても一定のリズムと空気をもった、ああいう居酒屋の場所のようなものが、沸き上がってくるように定着するんだな。」

「ニューヨークはとても疲れる街だ。だからこそ自然と人々はああいう場所を作って巣のように場所を取り巻いて身篭ってしまう。」

「いいじゃない。それが人間の一般的でかつ根本的な行動のパターンなんだからさ」

「そう。全然正しいんだよ。それが。中に入ったら方向感もないけど、強いられるような奇妙な力学も働いていない。そういう店を自然発生的にこの忙しい街が持っている。その自然な調和の秩序が素晴らしいよ。」

「そういえば銀次は最近どうしてるんだい?究極さんの店には来るのかい」

「銀次はいま高校の夜間警備員を埼玉の方でやってるよ。昔は山谷の闘争で暴れてた彼だけどさ。」

「彼は相変わらずなのかい?」

「まーちょっとは彼も丸くなったのかな。工業高校の夜警に泊まりこんでやってるみたいだけど。しかし最近は、店にやってきても、ソープいった時の自慢話ばかりしてるかな。」

「ははは。さすが。銀次だな。」

思わずアストロプレイスのホーム上に笑いがこぼれ落ちた。

「しかし高校の警備員か。なんか楽しそうな仕事だな」

「うん。楽だし時間も余るしとても居心地のいい仕事かもしれない。埼玉の方でそういう学校警備員たちの仕事を繋ぐいい組合があるそうなんだ。」

「それは楽そうで羨ましい仕事だ」

深夜のニューヨーク市の地下鉄というのは、一応終夜運転でずっとやっているようではあるのだが、果たしていつになったら列車が到着するものなのか、全然わからなかった。一応電車は走ってるらしい。ホームにいて待つ他の疎らな人々も、ここで何時かは電車が到着するという事態を疑ってるものはいなそうだった。その電車がいつになったら来るものなのかはわからない。しかしいつかは確実に電車は来るに決まっている。そのことだけは信じていてよい。そんな気の長い空気が、ぼんやりとこの場所では機能しているようだった。薄暗い橙色の電灯の中で。黒人のおじさんのやたら冗長な弾き語りを聞きながら。