9-10

空から雪がぱらついているのも気づいた。マンハッタンの歩道で、ビジネスや学校で人が入り混じる賑やかな街角の午後である。向こうの方から声を掛けあって歩いて来る一団がある。グループは数人で幾つかに分かれ、その集団が次から次へと流れていく。制服を着た男性と女性、大人の一団だ。ボーイスカウトガールスカウトの集団が、お互いに決まったフレーズの声を掛け合いながら道を歩いてるようなものと考えればイメージを突いているのだが、それが皆いい歳した大人の集団で近づいてくるという様子なのだ。彼らが身に纏っている紺色の制服や頭に載せている帽子の感じで分かったが、彼らは要するにNYCP、つまりニューヨーク市立警察の一団なのだ。彼らは何やって歩いているのかということだが、要するにあれがニューヨーク的な流儀による街頭パトロールの最中なのだ。僕はそう考えた。決して人々の間に隙間の多いような歩道ではなく、大して広くもないストリートの脇だが、一団となって、元気よく掛け声を上げ、互いの間で内輪の笑いを漏らしつつ、近づいてくる。並んで歩くと歩道を占領してしまうので、むしろすれ違う人のほうがうまくよけて歩かなければならないほどだ。しかしそうして職務としてのパトロールを楽しそうにして遂行している市警に敬意もあるのだろうか、街の人々は決してそれを迷惑と思ってるような節はない。威嚇的なものは全くなく、その光景は打ち解けていて、むしろ街の人々を無根拠に笑わせようとして、儀式的なパトロールを楽しんでるようでもある。僕はといえば、その時復活して沸き上がってきた吐き気のことで、ふらふらだった。もう我慢もできないので、どこか適当に、道の脇によくありがちな植物の植え込みにでも向けて、吐いてしまおうと思っていた。しかしマンハッタンの歩道とはその辺も不親切なもので、そんなに立派な歩道の隅の空いたスポットというのも、殆ど用意されていないのだ。もうすぐ吐きたい。路上で吐きたい。しかし東京の歩道ならすぐにも見つかりそうな植物の青い植え込みなど、マンハッタンでは用意もされていない。ビルとビルの合間に、本当にちっぽけな空白があり、そこは盛土のようなものの上に、取ってつけたような寂しい小さな樹木が一本植えられている。小さな植木鉢のような空間が幾つかビルの脇に並んでいる。もう我慢出来ないので、ちっぽけで骸骨のように痩せている樹木の上に、胃の中から内容物を吐き出した。吐き出したものは刺激的なカレー粉で散々黄色く染まった液体だった。吐くときはみっともないが悲しい捻り声も上げた。ニューヨーク市警の一団が腰の後ろに通りかかった。彼らは顔を見合わせて、吐いてる僕を目撃しながら、ウェッ、と僕と同じ呻き声を上げて、顔を顰めて見合わせた。こちらの人達は、気持ち悪いものを見た時即座に正直な反応が出るみたいで、彼ら市警団の正直な嫌悪の表情が視界に横から入った。ステップをつけ僕を避けるようにして市警団は過ぎていった。特にこの病人を介抱してあげなきゃという義務感もないようだ。もっとも僕も道端で吐きながらそういう他人の介抱を拒否してるような空気も出していたのかもしれない。素っ気ない連中だが、あれでも警察官たちなのだ。定期的に上げている奇声のパフォーマンスは、アメリカ人にとって伝統的な物真似で、インディアンの奇声を真似ている形式だとも分かった。露骨に中途半端な病人が現れた時のあの素っ気無さこそが、彼らアメリカ人にとって冷たいということではなく、むしろ自由なユーモアがストレートに表出されているという気もした。中腰になって屈みながら、あのニューヨーク市警に馬鹿にされて通り過ぎられたわけだが、何かそうされながらも爽快な気分のようなものが残っていた。そうだよ。街の隅っこにいるのは病人だよ。でも必要以上に同情する必要もない。その病人を笑い飛ばすことによって自由な挨拶をするというユーモアも、この街の自由の爽快さなんだよというように。