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図書館からの通路を校舎の方に戻ってくると、そこには学生達の大きなラウンジのような広場が開けていた。奥には大教室へ入る扉が並び、手前は大きな空間が開けていて、学生達は忙しくそこを通過しているか、一方ではDJブースを出して音楽を流していて、もう一方ではサークルの宣伝や受付のような机が出ていて、そこで何人かの学生が、世間話や与太話をしているのか、あるいは中には真剣な相談をしている人もいるのかもしれない。多様な声が渦を巻いていてこの場所ではどこが中心になって動いているのか全くわからない。学生達のカオスのようでもあるがそれは比較的秩序の整ったカオスの島宇宙が並んでいるような状態だったのだ。DJブースの向こうに立つヘッドフォンを片耳にだけあてて垂らした黒人の青年は、顔を振りながら目は何処へ飛んでいるのかわからず、自分の出している音楽を他人が聞いていようといまいとどうでもいいようで、ただ群衆の中で自分の世界に浸っているだけという様子だった。手前に出ているサークルブースの机だが、大きな文字で書かれたスローガンを長い机の下に紙を貼って垂らしている。

Does God exist?

太いカラーマジックでそう書かれていた。数人の学生が机の向こうで何事か話しをしている。金髪の女の子。眼鏡をかけた男の子。痩せているか太っているか。あんまりその中間もない。決してそんなに冴えた顔してるとかスマートな服装だとかいうわけではないが、地味に、しかし自己主張をしっかり出しているような人々だ。もちろんこういう光景は日本の大学でもよくあるものだ。あのサークルの看板が、部落解放研究会だったり、社会哲学研究会だったり、朝鮮史研究会だったりするものと考えれば、それがどういう状況であるのかすぐに把握できるだろう。アメリカ人の大学とは、本気で宗教的なものが多く混じり、それで普通なのか。しかし、「Does God exist?」というのは、そんなの他人とラウンジで語り合う事柄かよと思える。本気でそんなこといってるのか?君らは。いや本気なのだろう。そういう市民性でありそういう国なのだ。そして何よりも僕が思ったのは、こういう時に、「God」という単語には三人称単数の「does」を当てるものなのかという事だった。文法的問題だが、それは不思議というか、成程なと思わせるものだった。