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「究極さん、昨日買ったお土産はいったい誰にあげるつもりでいるんだい?」

バスの中で、僕は、地球の歩き方マップニューヨーク篇を読み耽る究極Q太郎にきいた。マンハッタンの道路とは碁盤目状に設計されていて、分かりやすく綺麗に線が引かれているものだが、縦のラインに沿って北方向へと上昇していくバスは、ちょうどセントラルパークを横切っているところだった。なだらかに連なるセントラルパークの大きな丘には昨夜から今朝方まで降っていた雪が、上の部分には幾らか残るもの、殆どの部分は湿った土肌を黒々と露わに晒しながら、街の中で残された中途半端な自然の姿を晒し、きれいなのか汚いのかよく分からないようなその街中の自然とは、中途半端でもただ放置しておけばよいという大都市の人々の観念で、単に晒されているだけのような丘が公園の中で大きく連なっていた。

「うーんと、・・・トミー向けと、あとは南尚向けかなぁ・・・」

ニューヨーク市の危なっかしいバスの運転に合わせ、車内が揺れているのに逆らいながら、黒縁の眼鏡がずれたのを片手で押さえ顔を上げた究極さんは、眼鏡の奥の目を遠くを見るように絞り込みながら、考えてそれを思い出すように言った。

「南尚か。CBGBのTシャツは南尚が喜びそうだね」

究極さんの元には、時々転がり込んでくるような人がいるのだ。トミーもそうだし、南尚もその一人だった。究極Q太郎が営業している西早稲田の交流居酒屋に、辿り着くように現れ、何度か通っているうちにいついてしまう。彼だって一個の人間だから、誰でも受け入れられるというわけでは全くないが、ぶらぶらと行く宛てなくさまよってる人間が、何かの切欠で究極Q太郎との関係に安らぎを覚え、生活圏を彼の近くに持つようになる。そんな人を何人か見かけた。そこに辿り着く前までは、色々な場所でチャレンジを繰り返し、成功したり挫折したりしたものの、そこに来てから奇妙に相性のよい生の環境を見出し、そこにある独特の交遊圏に住まうようになった何人かの人々だ。もちろんみなは生身の人間なので、トラブルもある。トラブルはむしろ多かった。そして究極Q太郎の近くでしばらく生活したものの、そこは単なる一個の中継地であって、またどこかへと流れていくものも多かった。しかしここにある交遊圏の空気と安定性というのは独特のもので、これが離れられなくなるという人間も何人かいた。南尚が究極さんのところへ来る前は、たしか御神楽の仕事をしていたのだと記憶している。南尚が二十代の後半のことだろうか。御神楽というのは、祭の縁日で、龍の御面を被って出し物をしたり、売店を出して御菓子や食事を売って稼ぎ、全国の祭を遠征しながら移動して仕事をしている人達のグループだ。日本には古くからある。御神楽の仕事にありつく前に南尚は、お笑い芸人を志し、相棒をみつけて幾つかコンテストに出ていたりもした。そのとき南尚の相棒になった人は、大川興行の設立時メンバーだったものの一人だった。その前は、サブカル系の雑誌で幾つか、クイックジャパンやその他アングラ系の総合誌的なエロ本などだか、ライターの仕事をやっていたはずだ。またその前は、普通のサラリーマンのような事も幾つかチャレンジしていたはずだ。セールスマンの営業で、人について修行していたり。

南尚というのは、ハードコアパンクを愛好するサブカル人生を自認し、生きている男だった。出身は茨城の龍ヶ崎市で、実家はずっとそこで農家をやっていた。農業高校を卒業してから専門学校を出て、最初は漫画家を目指していたそうだ。一応、それでリクルートビーイング誌に連載を持ったことがあるという実績もある。長くは続かなかった漫画の連載だが、南尚の生涯ではそのときが最も身入りはよかったそうだ。トミーもやはり、最初は究極Q太郎が店番をする日の、交流居酒屋でお客の一人だった。新宿区にある、少々特殊な理念で設立されたリベラルな新しい都立高校で、そこの女友達の伝ということで、店にやってきたものだったと思う。留学したこともあるが、幾つか高校を渡り歩き、卒業することはできなかった。ただ実家は焼肉屋をやっていたので、そこの手伝いをしていれば、特に仕事やお金に困るということもなかった。クラブで遊んだりすることも好きで、そういう世界には詳しい女の子だった。彼女は在日だった。お爺さんの故郷は済州島である。父親は焼肉屋の事業でそこそこ成功していて、新宿や中野で複数店を出していた。男兄弟がいて、上と下は男に挟まれている。弟は勉強がよくできて偏差値が高くて有名な私大付属高校に通っていた。兄貴のほうはしかし、暴力的な兄貴だったという話も彼女から聞いたことがある。だから兄からいじめられたりもしたのだろうが、しかしそんなことは全く何とも思ってないような明るさのある女の子だった。交流居酒屋の店で究極さんの日の常連になっているうちに、気がついたら彼女は究極さんと一緒に暮らすようになっていた。究極さんが住んでいたのは中野のアパートだが、彼もそんな風に成り行きで物事が進むことが、決して苦というのではなく、むしろ好んでそういう思いがけない偶然の方向性というのを受け入れてるような節もあった。