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マンハッタンという島で中央のほうへとバスが出てくると、そこは町が全体で巨大な高田馬場か新大久保といったところか。都会の繁華街にとって賑わい方の多様性はある種繁華街特有の汚らしさや嫌らしさの存在感と不可分にあると思うのだが、マンハッタンの中心街も、多様性とエネルギーというのは、そこにある汚ならしさと相関的である。高田馬場の駅前に山手線の改札をくぐって出てきたとき、その町の賑わいに活気とは、乱雑な故の汚らしさと駅の床や通りのアスファルトの冷たさ、汚れ具合とともに、高田馬場という町全体の存在感を我々は把握するものだ。高田馬場の改札をくぐるとき、あたりを見回して、ああ、やっぱりここは高田馬場だなと納得することができるだろう。ネオンの原色で派手派手しい煌きは同時にその足元に広がる町の汚さをも、雑多な入り混じりに交通の束として予告している。決してそこは吉祥寺ではなかったのだ。人は多かった。特に中心部に向かうにつれ人の多さとは半端でなかった。銀座や渋谷の休日も人の多さと通りに詰め込まれた人口密度には相当なものがあるが、バスがタイムズスクエアを通過するころは、ここの人の密度とは、あの銀座や渋谷にも勝っているだろうと見えた。というか休日の銀座渋谷よりも人口密度の多い町の姿というのを初めて見たのだ。町のイメージとは巨大な高田馬場という感じだ。歌舞伎町に比較してもいいが、つまりそれは町の汚さ、嫌らしさとともに多様性とエネルギーが保証されているような町だ。この町の交通力と繁殖力とはそういう危険性を取り去っては有り得ない。だから近寄るとあの繁華街やピンク街には独特の嫌らしい匂いが鼻について回ってきそうな気がして、こちら側の方に妙な構えを作ってしまう。街を歩きまわる時のある種条件反射のように。街のにおいが断層のように変化するときのショックに対する身構えとでもいうのか。そういう雑多でアナーキーな秩序の大都会の捉え方は、やはりどこへいっても同じなのだろう。