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床の上で、手元にあったソファクッションや毛布のようなものをかき集めて寝ているので、室内とはいえ決していい状態で寝ているとはいえない。時折目が覚めて昨日から続く異常な胃の状態が蘇ってきた。そして意識が戻ってくるたびにまだ周囲は暗く、朝までは長く、雪の降り続く湿った外の気配が空気の感触として確認される。寝るにも安心しては眠れず、しかし体は疲れていることは分かるのだが、時間の進むのがうんざりするほど遅く感じられ、胃が自分の身体自体と戦っているのを感じた。とにかく眠りに入ればこの胃痛も忘れるかと思うが、そう簡単にこの痛みが安易な忘却へと導いてはくれない。目を瞑り意識を失ったりそしてまた中途半端な覚醒で再び起きたりを、床の上で寝返りを打ちながら孤独に繰り返していた。時間が朝まで到達すれば、この痛みもだるい体の重みも消え去ってくれていることだろうか。そして死ぬほど為すすべもなく退屈な長い夜だった。

胃袋だけが動き回り僕の内部で鈍い活動を続けている。

盛り上がったり、内容物が移動していったり、痛みは強くなったり薄れたりと・・・。なんだかよく分からない体の反応だが、それらを意識の力では特にどうすることもできず、ただ為すがままに、受動的に、任せるままにしているしかなかった。それは無力な夜だった。ただ自動的に体の為すように、したいように、任せているだけだった。体の自動性に従っていれば、きっと治癒とは訪れるのだろうと祈りながら。隣で究極さんの寝息が聞こえる。究極さんのほうは落ち着いてよく眠れているようだった。だから時間がたち、気がついた時には瞬間で、それまで忘れていた意識と行動が全部一挙に戻ってきた。薄れていた意識が、身体の内部感覚が拡大するのとともに、頭をもたげていくのを感じた。急激に意識が戻ってくる。・・・いや、戻ってきたのは自分の喉の奥だった。

胃の中の内容物が急激に込み上げて来たのだ。それでもまだ眠いし体はだるいので飲み込もうとすれば元に戻せるかとも思ったが、この内蔵の動きはそんなに甘くなかったみたいだ。内容物が自分の口を通り過ぎて一気に鼻まで上がってきたのが分かった。鼻の奥につーんと危険な酸っぱい感覚が上ってきた。やばい!僕の意識は咄嗟の危険反応を受け取った。僕は被っていた毛布を跳ね返して立ち上がり、口に手を当てて抑えながら急いでバスルームへと駆け込んだ。白い清潔な陶器の便器が奥で輝いていた。僕は駆けていって一気に吐き出した。そこまではなんとか床を汚さないで間に合った。たくさん吐いた。胃の中の内容物は思っていたよりも遥かに多かった。長い嘔吐を僕は続けた。実は昨日から食べていたものが殆ど消化されていないで胃の中に今まで残っていたのにも気がついた。これだけ消化ができていなければ道理で今までは苦しいはずだった。急激な環境の変化に体がついていけずに、内臓の機能が今まで止まっていたのだろうか。吐きながらそんなことを考えてしまった。昨夜寝る前に食べたフライドチキンも殆どそのまま吐いてしまった。しかもこれは単なる嘔吐ではなく、殆ど血を吐いてるような血塗れの物だった。余りにもの胃痛に、これは飛行機の中で睡眠を取っていた段階からずっと、僕の胃の中は出血がはじまっていて止まらなかったのだ。今気付いたが。白く光る便器の前に立って体を曲げ、長い嘔吐を続けた。二度、三度と、波が来て吐いた。全部内容物を吐き出してしまおうと、それらの波が全部終るまで頑張って吐いた。白い便器は赤色と茶色に埋まった。吐き終わった後は、放心状態だった。しかし、これで今まで気分が悪かった理由はすべてはっきりとしたし、悪い物は全部吐き出したという気がすると、希望も持てた。レバーを下げると水は音を立て鋭い勢いで流れ出し悪い物を一気に流し去った。横のバスタブについたシャワーを出して、僕は水で口を濯いだ。シャワーからは生温いお湯が出てきたが、清浄な水の感触がとても気持ちよかった。救われたように水が気持ちよく、そして最後のほうではただの真水がおいしく感じられた。それだけで気分もよくなった。すっきりした。

気を取り直し、頭を持ち上げて見回すと、改めてここはきれいなバスルームだなと思った。白くて広々としたバスルームだった。ドアの横に洗濯機が置いてあって、奥に大きめのバスタブがあって隣にトイレットの便器が白く光っている。間は何故だか何も置かない空白のスペースで床のタイルだけが光っている。これがアメリカ的な空間の取り方なのだ。こんなにバスルームが広かったらそれだけで生活も気持ちよくなりそうだ。リヴィングに戻ったら、もう既に完全に明るくなっている外の陽射しが差し込んでいる室内で、究極さんも起きていた。究極さんは起き上がって、日本から持ってきた地球の歩き方マップニューヨーク編を読んでいたが、僕が出てくると顔を上げた。

「どうしたの?」
「いや・・・血を吐いちゃいましたよ」
僕は答えた。
「えっ・・・それは大丈夫?」
「いや。こういうのは一回全部吐いちゃえば治るんですよ」