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「もう、死ぬかと思いましたよ」

チャイニーズバーのテーブルで僕は言った。

「飛行機の中では。たぶん人生の中で今まであれが一番きつい胃痛でしたね」

チャイニーズバーのテーブル席についたら落ち着いてきた。ここまでの疲労を回顧的に振り返れるような気分になっていた。橙色の鈍い光が照らし出すチャイニーズバーの室内だった。鈍い照明の色とは店の感じを古臭いものか安上がりなものかという気にさせる。何か時間が数サイクル分ここでは遅れて流れているような。あるいは60年代か70年代かのニューヨークでもうここでは時間が止まってしまっているかのような。照らし出す橙色の鈍い光というのは何か時間がそこで澱んでいる様な印象をもたらすものだ。そういえば裸電球というのを読書用のスタンドの為に買いにいくとき一番安い裸電球というのはいつも鈍いオレンジ色の電球だが。あの安そうな色がこのチャイニーズバーでは室内全体に充ちていた。

「究極さんは疲れなかった?」
「いや、ぼくは大丈夫」
「こっちはもうへとへとですよー。でももう大分よくなりましたけどね」

このチャイニーズバーに二人が入ったとき、そこは店内の構造というのが、手前にはカウンターがあり、ちょうど今ビジネスが退けてきたばかりのような男女たちがくつろいでいた。彼らはいい調子で、グラスを片手に盛り上がっており、夕刻からさっそくナンパモードにでも入ってるかのようなムードだった。暗いバーの灯りの下でいい具合に盛り上がっていた。カウンターの椅子に座る白人女性の尻は、後ろから見るとジーパンとシャツの間からすべり落ちそうな尻の上の白い肌が覘いていた。隣の白人男性はグラスを片手に女に寄り添い、もう一方の片手は今にもその隙間からのぞく肌の割れ目にも滑り込んでいきそうな勢いだった。

しかし、カウンターの部分は既に人が埋まっていたので、僕らは奥についてるテーブル席のほうに案内された。しかしこっちのテーブル席のほうのフロアはまだこの時間ではがらがらで僕らのほかに客はいなかった。僕らは店のメニューを開いてみた。

「何にします?」

「ビールでも飲もうか」
「あっ。青島ビールとかありますね…でも究極さん、腹は減ってないの?」
「まだ減ってないよ」
「僕は飛行機の中で疲れきった分、今頃になってはらへってきたよ…それじゃあ青島ビールと…あと僕はスープでも先に取っておくね」

バーに入る前、僕は店の周囲を見回し、胃薬をどこか買えるような店はないか一通り見回した。いわゆるドラッグストアを探したのだが雑貨屋のような場所が一軒ありそこには日用品の隣にドラッグが揃っていた。店内で胃の痛みについて英語でどう説明すれば僕は戸惑った。中国系の顔立ちをした調子の良い店員の男が奥にいて、僕の呼びかけに、はいーという感じで首を長く伸ばして応答した。僕はちょっと英語の説明を試みてみた。stomach aiching、そんな風に説明すれば分かるのだろうか。軽薄に見えるほど調子のいい回転で受け答えするそのアジア系の店員は、にこにこしながら棚の一部を指差した。acidとか、against sourとか、どうやらそういう言い方が胃痛の処方を意味するみたいだということが、棚に並んでる一連の箱の但し書きを読みながら僕は理解した。つまり胃痛の問題というのは胃酸のことを意味している。あんまり複雑なことを言ってもこの店員に通じる気がしなかったので、幾つか箱の但し書きを読み比べてみて自分で買う薬を決めたのだ。

そのドラッグの箱をバーのテーブルの上で取り出して開いた。店員にはオーダーの他にコップの水も頼んでおいた。箱に書かれてる英語の説明書きを何度か読み返してみた。

「ふーん。アメリカで胃酸のことは要するにサワーなんだ。」

究極さんが言った。

「人間の胃というのは奇妙なもので。よくわからないものだからね。なんで胃というのは時に痛くなるのかということだけど」

僕は飛行機の中で苦し紛れに考えていたことの内容を話した。

「要するにそれは、胃の中で酸が出過ぎるとそれが逆に壁を自ら壊しにくるというのが胃痛の基本的なメカニズムでしょう。人が何か物を食べると消化して分解する為に酸を出す。その調整機能がきかなくなると痛くなる。胃に穴があくという言い方があるけどまさに胃壁を自分の消化液で壊しにくる。全体的な調整能力の不全から胃の痛みというのは起こっている。つまり自分で自分を破壊しにかかってるわけだ。胃痛のメカニズムというのは」
「どうすればいいの?」
「中の物を全部はくかそれか酸を中和させるかだよ。日本の大田胃酸という薬はまさにそれを中和させるというコンセプトだよ。」

オーダーの品とそこに加えてコップの水が運ばれてきた。

「でも飛行機の中のあの狭い室内でちょっと吐くのは躊躇したなあ」
僕は苦笑いして言った。
「そう?座席の列の後ろへ回ってしゃがみ込んでひそかにビニール袋の中にげーってやればよかったじゃない」
「あれがもっと痛くなってたらやってたかも。でもあんまりやりたくないよね。できれば」
「飛行機の中はトイレも狭いからね。なんか嫌だよね。はきにくい」

究極さんは青島ビールの小さな瓶に口をつけて飲みはじめた。

僕は言った。

「それでさっき買ったこの薬なんだけど。アメリカの胃薬。でもこれって日本の胃薬と随分違うみたい。僕が普段使ってるのは大田胃酸だから似た物を探したんだ。でも見当たらなかった。アメリカには大田胃酸にあたるような同じ種類の胃薬がないんだ。」
「大田胃酸ってあれ漢方じゃないの?」
「なんか感触は漢方ぽいよね。起源は漢方薬の系譜にあるのかもしれない。でも見てよ。アメリカの胃薬って全然違う」

それは薬のブロックを一回水に溶かして飲むというものでコップの水に一個溶かしてみた。白く丸いブロックはコップの中で急激な気泡を立てながら化学反応し水に落ちていった。炭酸水のサイダーのように細かく泡が沸いている。僕はコップを手に取り眺め回してみてから飲み干した。

「うん。なるほどね。」

胃の中に注ぐように僕は丁寧にこの水を腹に落とした。

「どんな感じ?」

究極さんが訊いた。僕はごっくりと飲み込んでから答えた。

「分かった。アメリカと日本では胃薬のコンセプトが違うんだ。」
「どういうこと」
「つまり、胃酸を中和させるということだけど、日本の大田胃酸とか、あるいは漢方系の粉末だと、酸を中和させるのに穏やかな粉末を注入するでしょう。しかしアメリカ人の考え方だとそれが逆なんだな。つまり胃酸に対抗させるのは、もう一つのやっぱり強烈な酸性なんだ。この薬を水に溶かしたのを飲むと、まるでサイダーかコーラを飲むような強烈な酸の口当たりがあるんだけど、これは要するに胃酸に対してはまた別の強烈な酸でもってそれを殺すということだよ。」
「あー、なるほどね」
「最初の胃酸を殺すために、日本人は穏やかな粉末で沈静化させようとするんだけど、アメリカ人の場合はそれが反対のもっと強烈な酸をぶつけることによって、殺そうとするということ。中和させようとすること。つまり、酸には酸をもって制すということだね。」
「それは確かにアメリカ人的だ」
「こんな部分にもアメリカ人と日本人で思考の違いが出てるよ」