地獄に堕ちた野郎ども−国家における成熟と老成の時間性

しかし今の日本で、「ニート」という言葉の使われ方というのも微妙に変なものであるように見える。NEETとは日本で使われるようになったが、それは(Not in Employment, Education or Training)の略語ということであり、wikiで見るに、言葉の起源は十年位前のイギリスということになっている。イギリスの社会調査における内閣報告書である。社会学的なニート研究というのが日本では現在発達しているようなので、一口でニートといってもwikiを見ると様々な種類があり、あんまり適当なことはいえないような厳密な研究が既にあるようだ。

イギリスではニートという言葉はあるが、しかしそんなには普及していない言葉であって、それ以外に特にこの言葉が頻用されてる国というのは日本以外には余りない模様である。日本では何か、差別的というか制裁的なニュアンスのある言葉として定着してる節もあるし、またそのように言われることも止むを得ないものではあるのだろうが。単に無職というのではなくあえてニートという名称が使われるのは、そこに独特の意味が生じているものだ。

しかし僕がずいぶん昔にラジオで聞いた話だと、ニートという言葉は、もともと70年代イギリスの社会状況に起源があるようであった。それはイギリス社会に、芸術家風情を気取って仕事もせずにぶらぶらし、社会保障の金ばかりを頼って生きてるような浮遊的人間が増えてきた現象について、あいつらニートだと言われて揶揄されたのだという話を聞いたことがある。

これはどういうことかというと、ちょうどイギリスでパンクロックが起こって来たときの状況に重なる。アメリカでは既に60年代に明らかになってきた同様の現象についてヒッピーという言い方があったが、70年代にパンクロックの文化が担われるような状況には、ニートなる、浮遊的な人間層の存在が既に前提されていた。たしかに、ピストルズやクラッシュといったバンドによって表出してきた人々の背景というのは、この今の日本で言うニートという層に当てはまっている。ロックバンドになるような人間達は、アートスクールに通っている人々の周辺が多かったのだが、スクールにも限定されなければそういう人々の群は自ずから変な視線に晒されるようにもなる。

つまり、ニートの命名の起源は、wikiにあるようにやはりイギリスであるにしても、wikiでは1999年の内閣報告書が元のように書かれているが、しかしそれは70年代から既にイギリス国内では日常的に顕在化していた現象と言葉であるのだろうと考えられるのだ。

たとえば、英語でneatというとき、それは、粋だとか、巧みだとか、ストレートだとか、すてき、お洒落、かっこいいという感じを示すときの微妙なニュアンスがあるみたいだ。そこでneetというのだからこのneatに何かが掛かっているのだろうし、必ずしもそれは社会制裁的な言い方でイギリスで言われてたものではないと思われるのだ。制裁というよりもその命名には何か粋なニュアンスが込められたということである。もちろんその半分には馬鹿にして揶揄しているような意味もあるがどちらかといえばユーモアが入っている言い方というか。

1977年に発表されたTHE DAMNEDのデビューアルバムには、『Neat,Neat,Neat』という曲が収録されているが、歌詞を見るところ、どうやらこのNeatとは微妙にNeetとという意味に掛かっているような雰囲気も読み取れる。「ニートニートニート、彼女じゃキャノンは、買えやしない(大砲orカメラ?)、ニートニートニート、彼女は拳銃、買えやしない」と歌われている。

イギリスにはニート或いはパンクス的な舞台を題材にして撮られている70年代以降の映画とは多くある。それは大抵、労働者階級とそこが抱えた空虚な穴の問題に繋がっている。例えばケン・ローチの作るシチュエーションにはよく出てくる話だし、デレク・ジャーマンの映画の舞台でもあるし、その他インディーズまで含めて、ニート的な浮遊性に投げ出された人々に焦点を当てている題材はイギリス映画に多い。スティーブン・フリアーズの『マイ・ビューティフル・ランドレット』という、パキスタン人移民の息子が、ダニエル・デイ・ルイス演じる町のパンクスと一緒にコインランドリーの店を立ち上げるという80年代の秀作映画もあった。このニート的なテーマが出現する最初の段階では、『さらば青春の光』という、若い頃のスティングが出演してTHE WHOの「四重人格」というアルバムを使っている映画があった。モッズというスクーター族の若者達の生態がそこではテーマになっていた。

イギリスで70年代に顕在化してきた現象というのは、実は日本では、90年代から00年代にかけての顕在化になったということである。そこには約二十年程度のタイムラグがあるのだ。社会の成熟度そして進化の度合いというのは国によって異なる。イギリスは経済的には日本に抜かれているが、社会構成の成熟度あるいは老成度からいえば、それはやはり日本よりも今まで数歩進んだ段階を生きていたのだ。

社会に自由の空間が増せばそれは必ずしも整頓された状態に社会が収まるというものではなく、逆に開示された自由に応じてそこでは新しい社会問題から新しい社会的な空虚な穴ぼこの開示性というのも生じるものだ。しかしこうして出てくる新しい穴ぼこというのは決して否定的に捉えることもできず、それは今まで潜在していた問題が、出るべくして社会の進化の状態に合わせて症状として出てきたというだけのことである。自由が増せばその分新しい社会問題の開示性というのも大きくなるが、だからといってそこでバックラッシュの後戻りをすればよいというわけにはならない。

開示された問題には新しい処方が常に考え出されねばならない。これは地道な社会的訓練であり社会がその都度学び直さなければならない、ジグザグなプロセスなのだろうが、基本的に、社会なんていうのはそんなものである。地味に地道に、特に期待もせずに、斜に構えながら、しかしめげずに、新しい自由と同時に新しく開いた穴ぼこのそれぞれと、向い合っていくしかないのだろう。