「ゲバラ=イメージ」の支配を乗り越えるために

さっき近所のシネコンのレイトにて『チェ・28歳の革命』を見てきた。チェ・ゲバラの伝記をソダーバーグ監督が撮ったということで最近話題になっていた映画だ。

歴史的な事件の当事者が死んでしばらく時間がたつとそれが神話化される。社会にはそのような神話作用の力が内在している。各時代において何かの必要に基づき神話は形成されるのだろうし、そのようにして既に我々のよく知る幾つかの神話も語られてきたのだ。神話にも幾つかの種類があるとしてその中でもよく目立つものとは英雄の像について謳われたものである。歴史的なヒーローは変遷される。ヒーローの姿とは変異しながらも何かの同一性を維持しながらそれは語り継がれていくし、時代に応じて必然性に応じて少しずつ新しいヒーローの像が歴史の中で作られ反復されていく。かつては、感情性のヒーローとしてのイエスがあって、知識と思想のヒーローとしてのマルクスがあって、そして20世紀後半において行動のヒーローとしてゲバラの像が生まれた。

ゲバラについては我々の時代にとってまだ比較的最近の出来事である。それは実は映画の宣伝で云われている程、広くは人々の知るものではない。なぜゲバラについての神話はそんなに広まらなかったのだろうか。まず基本的な疑問点として、ゲバラそして同胞としてのカストロの事件に、それが神話として深く脚色されうるほどの内容がはじめからなかったのではなかろうかという点がある。彼らは20世紀の有名な革命家であった。しかし彼らが遂行した革命において、そこにそんなに後で興味深く、誇り高く語られるほどの内容があったものなのかというのは、実は疑問なのだ。実際そこには恐らく語られるべくような、実りのある内容はない。ただ、ゲバラとはその顔写真とともに、イメージだけが世界に広まった。そういう人だったのだ。ゲバラ語録なるものや旅日記は残っている。ゲバラの語った言葉について、映画の中でも一つ一つ引用され反復されている。しかしそれが果たしてそんなに意味のある言葉なのか。実は凡庸な、誰でも言える様な台詞の数々ではないのか。実際その革命的言説の退屈さによって、ゲバラのイメージというのは必要以上に拡大されなかったのだ。それは世界の大衆的に憧られるほどその実中味のある論理的内容では決してない。

恐らく現実のゲバラという人は、言葉では殆ど思考しなかった人なのだ。ゲバラの特異な思考なるものがあるとすれば、それは行動や手作業や仲間に対する感情の一つ一つのことであり、その微妙な際立ちの冴えについては、とても言語化されるようなものではなく、たぶんそこには芸術的な身のこなし方の幾つかがあったのだとしても、言葉に翻訳されることが難しく、言葉以外の他の媒体においても殆ど翻訳されることがなかった、一回限りの美的な出来事だったのだろう。しかしそれもゲバラの実在についてあくまでも肯定的に解釈をしてのことである。写真か映像としてのゲバラのイメージ以外に、特にゲバラについて理解する手がかりはなく、残された彼の手記についてはほぼ退屈なものだというのなら、それは神話としてご多分の例にもれず、後で語られるゲバラのイメージについては、殆ど脚色されて美化されたものと考えて正しいのではなかろうか。

たとえばイエスのイメージについて、それは聖書の中に書かれたものから含めて、それは殆ど後々の人がでっち上げて脚色した虚像だと考えてよい。聖書の記述からその引用の歴史とは、誰か後々の人の想像が投影されて雪だるま式に拡張していった虚構のストーリーである。それがよく出来た虚構話であるが故に、社会的に反復して引用され機能されうる巧妙な仕掛けを、イエスのヒーローとしてのイメージとは勝ち得ることができた。それはとても一人の記述ではない。名無しで不特定多数の手による創作なのだ。そして今、ソダーバーグという映画監督が、ゲバラについて、それを神話として描き提示したいという欲望をもっている。イエスという人物を神話化する構造と、ソダーバーグがゲバラを神話化しようとする遣り方には、どうやらある同一性が無自覚に反復されている。それは西洋の社会が、道徳的な基準となる英雄譚について語るときに築き上げてきた、ある無意識の、強制的に尊敬すべきとされるが故の超越的ヒーロー像の系譜に重なるのだ。

エスが神人であったのに比べて、ソダーバーグは生身の人間としてのゲバラを描こうとしているではないかとの声もあるだろう。しかし、生身の人間としてのゲバラを描いていたとしても、やはり決定的にこの映画に出てくる英雄像の疑わしい点とは、ゲバラが何故その善行を遂行していくことに憑り付かれている人間であるのかという事情について、ゲバラの精神的な動機については決して触れられないでいること、そこの動機の関係性的なメカニズムについて、すべてが隠蔽されている物語であるという点において、これはイエスのストーリーに等しいのだ。ソダーバーグが反復しているのは、この無根拠な英雄像なのである。イエスの善行の意味も、それが結局のところ無根拠な意志であるがゆえに、それは人間のものではなく、神のものとして、西洋社会の構造において、超越的に持て囃され得たのだ。