今村仁司シンポジウム

土曜は台風がいきなりやってきて面倒な雨だったけれど、ナベサクさんに誘われ、東経大今村仁司記念シンポジウムにいってきた。国分寺で降りて雨と風の中を歩き、坂道を上り丘の上の東経大へ、昼過ぎに到着。思想系では著明な学者達を集めて大学が企画したシンポジウムである。今村仁司は今年の5月に死んでいる。そんなに読んだおぼえもないんだけど、80年代に現代思想の流れを日本で作り出す上で、彼が結構重要な働きをした人であったのだろうとは思う。シンポジウムを眺めていて、学者筋の人脈的な繋がりの中で、地味で力も決してない静かな動きだが、思想というのが学問上の仕事としてどのように伝わり、遅いスピードの中でグループを形成し、一定形式を帯び、そしてメディアの中にも現れていくのかというプロセス形成について、時間を遡行的に振り返り窺うことができた感じだ。本当に、地味でマイナーな動きの中で、学問上の哲学分野というのは、静かに遅く進行するものなのだろう。それは学者的な世界の他には、ジャーナリズム上の分野があるわけで、ジャーナリズム的で商業的な分野の伝達から発展の方が、結局は動因力をもつのだが、学者の世界、大学の中、アカデミズム上の世界では、情報と人の動き方というのが、どのような流れ方を取るのかという、幾分特殊な世界の事情について、シンポに全国から集まってきた学者陣の話から、いろいろ改めて知ることができた。東経大では現在の学長が、もともと今村さんによって大学に招聘された人なので、この大学にとって今村氏の地位がいかに重要なポジションにあったのか、ジャーナリズム的にも多くの本を出版して著明な学者であったが、少数派とはいえ左派的な人脈が大学運営の中心にあるというのが、実際にはどんな感じなのかというのも窺い知れる。

思想系とはいえ、やはり学者の世界というのは地味なのだ。地味で神経症的な世界である。しかし世の中の経済界を見回したとき、実際にはこれよりももっとどうしようもない程地味で精神的に屈折した物の方が遥かに多いと云う事も僕はよくわかるので、特にギャップを感じたと云う事もないが、この日に見た学者の存在について、普通は本屋や図書館で本が並んでいる名前の著者と云う事で出会ったり、時にはテレビで見かけたり、名前はちょっとした機会に見ることはあるとして、その実体的な生産のアソシエーションとは、こういう空気の中にあるのだとわかった。例えば、学者を志す人というのは、普通はまず院に進むことが多いのだろうが、そこから大学への具体的な教員としての就職を目指すわけであるが、一人の学者を大学に招聘するにあたっても、どのような決定機関があって、会議がもたれ、どのように人脈というのが作用するのかとか、要するに、学者の世界の動きというのは、そういう地味で緩慢で、客観的な根拠については常に恣意的で曖昧な中を、人事から物事というのが、ちょっとした些細な事から決定しつつ流れていくものなのだ。それはそれで憂鬱な世界であることも間違いない。しかしかといって、世の中の経済システムで=メシを食っていくプロセスにおいて、それよりマシな世界が多くあるとは決して思えず、退屈で面倒だと思いつつも、そこに従属するしかない。緩慢な権力の体系が、アカデミズムとして、日本でも歴史的に出来上がったものとして実在している。我々が本屋や図書館や新聞やネットで手にする、その思想上の業績、著作というのも、それが出来上がってくる背景には、確実にこの過程が何らかの形で含まれているものといえる。この退屈で気の遠くなる緩慢な時間のプロセス、しかしそれはパッとしないが、確実に機能している。それがアカデミズム的時間である。

今村さんによって東経大の職に呼ばれたという、桜井哲夫さんの話とか面白かった。今ある左翼的な労働論の展開とは、意識的にも無意識的にも、今村仁司が80年代より日本にもたらしたものの業績が明らかに大きいのだ。旧左翼的な労働観から現在的な労働観への決定的な移行は、今村仁司および今村が日本に紹介したフランス思想の論理に多くを負っている。もしこの決定的移行が厳密に行われえなかったのならば、左翼なんかとっくに滅びていたはずである。しかし結果的に如何に重要な意味を持った移行でも、それが70年代から80年代に、実質的に人脈を媒介にして変更されていく過程では、いかに地味で緩慢で神経症的なプロセスをそこで潜ってきたのかというのがよくわかるのだ。桜井哲夫の発表した労働論から見る今村仁司の業績とは、とてもよく理解できた。司会をしていたのが、三島憲一であり、この人も東経大の教員だが、東経大という小さな大学で、今村を中心にした左派人脈というのが、地味ながらもよく機能していたのだろう。早大の美学的左翼にあたる塚原史や、野家啓一や子安宣那などの話を交えながらシンポは終了した。

終わってからナベサクさんと、どこに飲みにいこうか考えていたのだが、ナベサクさんがよせばいいのに、懇親会にも出たいというので、そのまま流れ込んでしまった。東経大のタワーで最上階にある部屋で、パーティ形式の立食会である。ルームに入ると、某編集長とばったり。今村氏の仕事を考えればいないはずはなかったのだが、遭遇して、「なんだ、君達はこういうのにも興味あるのかい」と。食い物と酒がおいしいのでパクパク食っていた。僕らが話していたら、そこに与謝野という名札をつけた女性が入ってきたので、「あれ?僕の高校にも先輩で与謝野という姓の人がいたんですけど」「それは私の姪よ」「今は三女の母親になってるけどね」という。あの人も出版の人なんですか?と編集長に聞くと、いや作家だよ、という。与謝野文子さん、僕も名前はどっかで拝見したことはあったと思う、美術批評を書いている方である。面白い女性だったので、ナベサクさんを交えて、ベンヤミン談義になった。与謝野晶子の子孫である。ひとり国会議員もいるのは有名だが。今村仁司なんかを読んだのは80年代のことだが、少し彼の啓蒙的な議論を読んで、充分に啓蒙され解放感も感じた後に、その後殆ど読んでなかったが、その頃今村さんの授業してる隣で、左翼的サークルで活動していた人々もたくさんいたはずで、学者やライターになっているのだが、その世代の人が殆ど会場にいなかったのもちょっと気になった。当時、今村さんの本を読んでいないはずもなかったのだが、具体的には繋がっていなかったのだ。学者の世界とは、そういうものなのだ。今の論説の流れでは、80年代の、今村氏周辺の言説が確実に媒介になっていて、当時のあの流れ抜きには、今の時代的論調はありえなかったはずのものである。しかしそういう重要な間接的媒介はあったにしても、実際には、人というのは、なかなか繋がらないものなんだなというのも実感した。そんな夜だった。