All Apologies

カート・コバーンは94年、27歳の時に、拳銃自殺するのだが、死体から薬物反応も検出されたという。彼にとって、死にたいと思わせていた想念が何だったのかは、わからない。自殺しうる人というのは、おそらく実際に行為に移す前までに、相当数のその考えに繰り返し捉われたことがあるはずだ。だからその直前に突如死にたくなったというよりも、彼にとってずっと以前から、そういう考えに捉われる傾向はあったのだろう。

ただ何回か想像的に繰り返したことのある想念を、ドラッグで朦朧とする意識の中でやってしまったということに他ならない。拳銃で自分の頭を撃ったということだから、拳銃が身近に出回っている社会では、こういうケースも珍しくはないだろう。ただアーティストとして成功を収めた段階にあった彼にとって、そこまでいかせたものが何だったのかというのは、弱冠よくわからないものを残した。

結婚したコートニー・ラブとの関係によって悩んでいたのか、あるいはそれ以前の、朦朧とした意識の中の思い付き的な行為だったのか。バロウズのウィリアムテルごっこみたいな。死の軽さと無意味さが全面的に漂い出て流動してしまったような、虚構の空間の最中における。・・・しかし所詮、他人の死を詮索したところで、それが了解可能になるものでもない。

バンド、ニルヴァーナにとって最後のアルバムになったのが、子宮の中で−IN UTEROだったが、彼らはスタジオアルバムとして、纏まったコンセプトでは3枚しか作らなかった。後は初期から余っていた曲を寄せ集めた「incesticide」というのが一枚に、MTVのアンプラグドライブが一枚出ている。

結果的に、最後のアルバムになった最後の曲とは、カートにとって象徴的な意味を示す一曲になっていた。ALL APOLOGIES−と題された短い詩は、呆気ないほどの短さの中に、凝縮された言葉の密度が込められている。死の夢こそが、かくも呆気なく儚いけれども、その軽さにおいて、誘惑を残しつつも、まだ生のこちら側において、世界を眺めていられる、思考していられる、余裕の振る舞いとして、生の側にいる人々に、よく研がれた希望を確保させ直すことができるのだろうとは思われる。

死んでいく人とは結局その理由はわからない。こちら側において了解できないものは残り続ける。金が入り性にも充たされたから、幸せになれたということでもない。しかし理由は、了解できないから重いのでなく、むしろ了解できないからこそ軽いのだ。その軽さに気づいたとき、生の側に居てしまっていることにも、意味無意味の拘束的手足を超えたところで軽やかな自由を見出すと云うこともある。

聴いてるうちに薄らぎながら、消滅する意味と消滅する重力の只中を、この音楽で体験することによって、誰にとっても等しくハイデガーの云う意味での、死に向かう存在にとって、時間が引き延びていることの、ただならぬ安らぎと気持ちよさについて改めて見出すことができる。かくしてニルヴァーナの音楽とは崇高なのである。