『DEATH NOTE』は、なぜ時代的に共有され、こうも受けているのか?

去年話題だった『DEATHE NOTE』というのを、DVDで借りてきて見た。といっても昨夜見たのはまだ前編だけである。後編の方は、また後で見ようという気持ちである。

いろいろと複雑な関係構成になっていて手の凝った作りをしている物語だと思うが、基本はわかりやすい。別に人物描写に深みがあるわけでもないし、機能的な人物像、人物構成が最初に与えられてシステマティックに事件となる要素について機械的にこなされ流れていく。殆ど数値的なゲーム配置で回転してるみたいな話だが、今時のヒット狙いで仕掛ける映画というのは、こうまでもまるで偏差値計算みたいなのが、物語の中に明らかに埋め込まれてるのかという気もした。こういう仕掛作品みたいなのは、普段からあまり見ないのだが。

しかしデスノートの設定になるテーマ性の構築というのは、さすがに現代的な性質が、精神分析的な視点にも、埋め込まれていると見ることができるのではないかと思った。まず当のデスノートという物の実体だが、要するにそれは「恨み帳」といったものの、空想的に発展して高性能化した物体である。そのノートに名前を書けば、誰でも自分の思う人間を、殺すことができるという。一人の大学生(ライト)が偶然そのノートを手にするのだが、誰でもすきに殺せる、という条件は、当の若者にとって、次第に全能感を満足させるものとなっていく。デスノートのようなノートがあったらいいのに、デスノートみたいな物が欲しいと思わせることは、要するに、観客の側の全能感的な空想、渇望に働きかけるわけである。

最初は、街の中で大学生が遭遇する、悪質な不良をターゲットにして、殺していくが、誰でもすきに殺せるという条件は、次第にかの大学生の性質を、悪魔的なものにしていく。はじめは悪人に処刑を下すという正義の前提があったとしても、デスノートの濫用は、大義名分を崩していき、ただ一人の若者の全能感を刺激するだけの利用に成り果てていくという。

それでノートの秘密を知ってるものは他になく、ノートの指示を教唆してくれるのは、彼にしか見えない死神だから、次々と東京で起きる謎の変死事件について、誰にやられているのか、何処で仕掛けられているのかというのが、見た目にはわからないということ。この辺は、攻撃の匿名性ということであって、まるで現在のネットや2ちゃんねる的状況にとって、嫌がらせが起きていても、それが誰にやられているのか特定できないという、現在的な攻撃性の不透明な表層のような状況的判断が、そのまま物語の設定として反映されているという感じだ。

恨み帳の超高性能ヴァージョン、そして匿名の攻撃の過激な空想的満足ということで、デスノートという物語のテーマになっているのは、現代社会における、復讐性という位相を明らかにするものである。それは現代的状況、社会システムの窒息するような複雑さと、無造作に散乱されただけのように見える多様性を前にして、復讐精神というのが、独自の位相においてひとり歩きをしていて、大きな影を抽象的に帯びている、社会の無意識に投げかけているという在り方を反映させるものになっている。

この復讐の精神の偏在性というのは、ある意味絶望的な状況ではあるのだが、デスノートという映画で(原作は漫画のヒット作ということだが)切り取られた、この抽象的な社会像は、なかなかシュールに、身に迫るものが、見る者の誰にも心当りがあるはずなのだろう。絶望的に、現代社会を生きる我々は、対象を見失いはっきりさせることのできない攻撃的な暴力性と処理しきれない復讐心の飽和状況を、当然のような前提で生きてしまっている、無意識的に既にそう納得して生きてるし、またそう生きざるえない、そういった現実的なニヒリズム的センスの線を、相当リアルに、映画の舞台として、説話論的磁場として浮き上がらせているものだ。

この身近な絶望性の描写というのが、現実的な生きられるニヒリズムとして、観る者には、とても理解しやすい緊張感、感情移入しやすいシチュエーションを再確認させるのだろう。デスノートという完全に空想的設定であるが、しかし世界観において、これは大変現代的にリアルなのである。

後編はさてどうなるのか。ライトとエルの対決は?その辺は、また後のばしで見てみるつもり。