黒沢清の『降霊』

霊媒師の仕事を片手間に手がける主婦が、大学の心理学研究者に興味を惹かれ研究の対象になっていた。主婦は定期的に大学の研究室にゲストとして呼ばれインタビューを受ける。彼女は遺品などの物質的なデータから、その背景にある人物像を当てる技術があった。彼女は自宅に訪れる悩みを持つ人間のカウンセリングをし、相談相手の人間関係の中で何が亀裂になっていて何が問題であるのかを読み取ることができるし、処方箋を示すこともできた。主婦はそのうち、研究者を介して警察の捜査に協力を要請される。少女の誘拐事件である。主婦は普通の人には目に見えない亡霊を介して、現実の背景にある構造を読み取るのだ。しかし構造が彼女によって過剰に見えすぎてしまうことが、逆に彼女の精神に深い疲労を与えていた。見えすぎてしまうことにより、結果的に彼女は、必要以上に現実に介入してしまい、やがて自分と夫のささやかな、二人だけの家庭生活まで自己破壊してしまうことになる。

見えすぎてしまう事は罪なのだろうか?あるいは必要以上に物事を他人よりもよく見てしまう事には咎があるのか。他人を過剰に見ないことによって、共同体の掟とは暗黙裡によく守られ、共同体はスムーズに進行するようにできている。それは共同体の法則ともいえる。この法則がうまく守れない輩は必然的に共同体から零れ落ち、淘汰されるようにできている。しかし勿論、視線の法則とはよく掟からは逸脱し、裏へ裏へと視線の欲望は退行したがる。視線の傾向性とは、常に視線を分裂させる。視線の欲望とは、常に複数の光線を所有したがる。見すぎてはいけないということは日常生活の倫理でもある。それは個人的な倫理というよりも共同性の中で強いられている視線の条件である。見てはいけない。あるいは見たとしても、それは見ていなかったことにしなければならない。日常性の中で慣習的に強いられる共同性の条件とは、このようなタブーによって暗黙に守られている。それ以上に働いてしまう主婦の好奇心、あるいは知識欲とは、彼女自身にとっても正体不明のものがある。自分で自分を律する意志以上に、どうしても彼女の目はそれ以上のものを見てしまうのだ。彼女はファミレスでアルバイトしてる最中にも、余計な亡霊を、レストランに来る客の隣に見つけてしまう。余計なものを見てしまうたびに、それは彼女に言い様のない深い疲弊を与えている。