今日はエピクロスを

読んでいた。なぜエピクロスか?ここのところずっとスピノザとカントの問題について考えているから、そこら辺の起源にある思考としてエピクロスを読まなきゃと思ったのだ。エピクロスのテキストは岩波文庫を読んでいた。薄い本である。古代ギリシャ哲学にエピクロス派という大きな潮流があったように、エピクロスをある種の起源として捉えなおすことは重要である。エピクロスとは要所でよく引用されているのを目にする。マルクスの学位論文が『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』というものであったことも有名な話だ。エピクロス派と対になって語られる概念とはストア派である。単純に言えばエピキュリアンとは快楽主義の傾向でありストア派とはストイック−禁欲主義の傾向である。快楽の追求によって善となすか苦行によって善となすかという分かり易い対である。このエピクロス派とストア派の対を軸にして、カントの実践理性批判では実践道徳のあり方を巡るコンセプトが論じられている。

今日気が付いたのは、エピクロスの述べた岩波文庫版冒頭に出てくるマニフェストドゥルーズの『差異と反復』の冒頭部分が似ているなと思ったことである。

マルクスにとって、デモクリトスの原子論からエピクロスの原子論に移行する差異とは、デモクリトスにとって原子の構成が必然性によって固定されていたのに対し、エピクロスは原子の運動を自己落下するときのズレと捉え、そこに偶然性の入り込む余地を発見したことにある。マルクスにとって、この偶然性の隙間であり原子の運動をうむ間のことが、自由の可能性であると考えられたのだ。