スピノチストの現在

最近はスピノザをよく読んでる。スピノザは今までも何度かトライしてみたことはあったが、どうも本格的な読みのモードに入れたということはなかったのだ。だから断片的にしか、スピノザの知識はなかった。スピノザといえばエチカということなのだが、この本は読み方が難しいのだ。文庫だと上下二冊だが、比較的薄めの本だし、使われている概念用語も特別難しいものはないはずなのだが、しかしそれでもこの本は、解読するのにちょっとしたコツがいる、簡単そうでいて素通りできない、妙な仕掛けに充ちていて、そう安易には中に入っていけない本なのだ。最近になって僕はようやく、スピノザを理解するコツを掴みはじめたといったところだろうか。

よくスピノチストと謂われる言い方があるが、スピノザの魅力とは何なのだろう。なぜ時折スピノザに対して熱狂的に陶酔する人というのが世には現れうるのだろうか。スピノザといえばエチカということなのだが、この本は読み方が難しいものだ。比較的薄めの本だし使われている概念用語も特別難しいものはないはずである。しかしそれでもこの本は解読するのにちょっとしたコツがいる、簡単そうでいて素通りできない妙な仕掛けに充ちていて、そう安易には中に入っていけない本なのだ。

大江健三郎スピノザを読むのに凝っていた時期があるそうだ。大江もスピノザは難しいですねと言っていた。そして、やっぱりドゥルーズという人の書いたスピノザ論が大変いいですねとも語っていた。それをテレビジョンで見た記憶があるのだ。聞き手は立花隆だった。あれはノーベル賞を受賞した当時のインタビューである。

エチカとは薄い本だが決してストレートに素通りするように読める本ではない。立ち止まったり、先を飛ばしたりしながら、何度もひっくり返して眺め回さないと、この本の中に込められた構造を発見することができない。

スピノザの著作とは数少ないものである。僅かなページ数の中に、構造の重層性から、幾つもの世界の公式が詰められて凝縮しているのだ。だからスピノザを読み解くとは、この凝縮についてゆっくりと解きほぐして行く作業になるだろう。スピードによってそこに到達しうるものでもない。ある解釈の遅さの中にこそスピノザの発見とは生きている。スピノザについて理解が発生するポイントについて、スピノザ自身の記述に即して言えば次のようなものだろう。それはスピノザの示した幾何学的な観念の図式が、自らのうちで内在的なものとして、ある手応えのある生命力の実在として、認識それ自体が自動的に動き出しはじめる、その瞬間の描写である。

我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。

『エチカ』第三部感情の起源および本性について 定理一

理性の導きに従って、何事にも動じない精神の位相に到達すること。我々を混乱させるのは、いつも衝動である。衝動ではなくて、認識を媒介することによって、理性に到達する。そして何事にも動じることのない相というのは、永遠の相によって見られる認識である。これはスピノザの立てた原理的な枠組である。あるいはスピノザ的仮説といってもいいだろう。

スピノザが信仰してるのは、理性の力である。そしてそれを可能にするのは人間の力である。人間とは、事物について不十分な観念を持っている限り、受動的である。しかし事物について十全なる観念に到達するとき、人間とは自動的に能動的な存在となりうる。

状況に受動的であることをやめるためには、正確な認識を媒介することなしにはありえない。誤解されやすい言い方だが、自己克己や、「目的」を持つこと、そして「主体性」によって、受動的状況から抜けるということは、本質的にはないものである。頑張ろうとして足掻く事自体、それらはまだ衝動という位置にある。人間的な目的の正体とはまだ衝動の一部分である。

それに対して神はなんら目的を持っていない。この世に与えていない。それを自然の合目的性として解釈することは、みな人間的想像の反映にすぎないのだ。ゆえにそれは神の物ではない。受動的状況を克服するのは、ただ不十全な認識から、十全な認識へと移行することによってでしかない。十全な観念が見出されたとき、状態とは自ずから能動的なものになる。