『ALWAYS 三丁目の夕日』−シネマと道徳感情の装置

『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画が流行っているとの情報を得た。いいという人が多い。テレビの情報番組などを見ていて評判がいい。一般によく流通しうる映画の中で、いいものを発見するという楽しみが分析の面白さの中には必ず含まれるものだ。

映画を知的に解析しようとする態度には二つの種類がある。一つは蓮実重彦の見方ともう一つはジジェクの見方だ。いわゆるシネフィル系と呼ばれているものの責任を背負っているのは蓮実重彦の見方である。それに対してジジェク的な見方の場合、映画とは、イメージとは、自分の概念を展開するためにある。イメージや映画に含まれる社会構造の中から概念の存在を抽出して引き出すことが、そこでは重要なのだ。必ずしも映画自体と向き合ってしまう必要もない。しかしどちらかといえばジジェクのほうが方法として、意義において正しいはずなのだ。普通に、生き方としてもそちらのほうが。しかしこの方法を映画に対して適用する人は、実は日本では少ない。端的にそれは蓮実重彦の責任だと思うのだが。一般性に根差しているのは明らかにジジェクのほうなのだから、もともと自然発生的な物の見方とはそういうものであったはず。少なくとも日本でも文芸批評においては普通にジジェク的慣習の中にある。なぜ現在のような映画批評のあり方が覆ってしまうようになったのかもよくわからないが、そして蓮実的な物の支配が必ずしも間違っているとは云い難いのだが、なにやらアイロニカルなやり方で80年代から現在まで、この歪さを維持させた映画批評のあり方は、これから必然的に変わっていくことだろう。

面白いと云われてる映画は、なるべくたくさん見ておきたい。というのは怠惰により、僕の見逃してきた映画が圧倒的に多いという事実から由る、比較的最近僕が駆られている欲望なのだが、噂をあちこちで聞いて、僕は近所のショッピングセンター内に出来た大型シネコンに見に行った。昼間だったが客層は圧倒的におばさん達に占められている。観ている間も、おばさんの啜り泣きがあちこちから聞こえてきた。実際、端的にいって僕もこういう映画は好きなのだ。というか映画とは、その社会的機能としてこういうものであるということは、映画の存在理由にとっては絶対的なものである。

要するにこれは、おばさん達を泣かせる映画なのだ。舞台は昭和33年の東京。まだ建設中の東京タワーのふもとに広がる下町にあったはずの物語である。場所を考えればあの町は、東京タワーとの距離の近接さからいって港区にあったのかもしれないが、今では到底あの町の跡形も残っているとは考えがたい。昭和33年当時といえども東京タワーの近辺であの風情の下町があったということは、やはりないのではないだろうか。そこのところは虚構的な設定であるという感じだ。

同じ下町に生きる複数の人間模様を交差させ同時進行的に浮かび上がらせる。その中のモチーフの一つには集団就職で青森から上京してきた中卒の女の子の話がある。計算すると現在は昭和80年にあたるのだから、舞台の時代は47年前であり、この女の子と同世代にあたる人達は、今は六十代の年齢になっている。映画館に来てるおばさんたちも、やはりそのくらいの年代は多かったのだ。小学生の男の子同士の友情をモチーフにして映画の中では、ある事件が進行するのだが、その小学生だったら今は五十代後半といったところか。世代的にはちょうど北野武などがそこにあたるだろう。例えばテリー伊藤の少年時代だとか、そういえばすが秀実の話していたネタ話の中に、すがさんの出身は新潟だったのだが自分の頃はまだ集団就職の時代だったという話があったのを思い出した。団塊の世代という言い方をするとき、それは1940年代生まれのことを指すらしいので、その後半かそれのちょっと後くらいの世代、その原光景である。北野武のネタに、自分の親父さん(菊次郎)は、東京タワーのペンキを塗る仕事をやったことがあって、それが危なくてしょうもない仕事だったという話があったと思う。

この映画が、おばさん達を泣かせるとき、そこで喚起させた感情とは、映画館を出た後に、生活において彼女らを道徳的に主体化させるよう、機能するだろう。別におばさんに限らないし、おばさんを差別的に語ることもできない。ホリエモンのブログでもこの映画で泣いたと告白していた。

そして映画の大衆的な原点=一般性における原点とは、このような物であったのだし、映画の役割とはこれら教育的機能だったのだ。要するに感情教育である。それは近代における感情教育の装置であり、一つ所の暗闇の中で、不特定多数の集団が、椅子に二時間前後を縛り付けられて、共通の、共同の体験をするということの意義とは、まさにこの映画の存在の歴史にこそ、その正当な起源を負うのだ。

しかし、それではかつてのウィリヘルム・ライヒの分析のように、映画をその「教育的機能」においてファシズムの潜在性と結びつけて考えることもできるだろうか。「感動すること」とは装置として抽象的に活用され回収が可能になる。感動することとは、フィクションをフィクションであるがゆえに、それを守らねばならないという道徳的心性、決意的な心性へと、観客を魅了し、駆り立てる。

昭和33年の風景において、戦後のイメージとはまだ根強い。暗闇において窮屈な椅子に、不特定多数の集団が縛り付けられる観劇、一定の時間を共有する構造とは、この時代においてもまだ露に機能していたものだ。それに対して現在、郊外型の大型シネコンの一室において、我々の与えられてる椅子とは、遥かに居心地がよい。隣の席との間隔も計算されつくされ、ソファ形状の材質はよく選ばれ、肘にはドリンクホルダーが取り付けられている。

下町の家々の中でも求心的な役割を持った小さな自動車修理工場、鈴木モーターズの家には、テレビがその界隈の家で、はじめてやってくることになる。近所の人々が鈴木家の居間に集い、皆でテレビ鑑賞がなされる。白黒の画面に現れたのは、力道山のプロレスである。鑑賞の空間において近所の皆が一体化となり、合わせて空手チョップの仕種に陶酔する。テレビの次に鈴木家にやってきたのは冷蔵庫である。近所の人々は馴染みの居酒屋で夜になって情報交換している。鈴木家の体験しているのは、いわゆる三種の神器と呼ばれた家電のひとつひとつの到来である。「もはや戦後ではない。か・・・」という呟きが飲み屋の中で漏らされる。