道徳感情論

道徳感情を具体的に可視化することによって、人々にそれに主体化させるように、社会機能を作り出すこと。近代のある時点から、またある時代まで、映画という装置がこの機能を担った。

これは社会学的に見られたときの『近代文学』の機能の延長上に存在した装置である。映画が重要な社会装置として機能したのは、確かに1960年代までにあたる時代のことであるのだろう。それ以降はテレビの存在が大衆的なプロパンガンダ機能を担うことになる。

映画の以前に、この道徳感情の教育的機能から啓蒙的機能を果たしていた存在とは、西洋でいえば教会であった。東洋であれば寺であるのだろうが、文学的な劇の上演を介して道徳について示し、さらにそこに感情教育を果たすことによって、国民的な主体化、あるいは人間的な自己意識の把握をさせる機能である。日本の近代史で云えば、映画の存在とともに「学校」が、場所としてのそのような機能を果たしてきたのだろう。

道徳を与えるとは、そこに何らかの文学的装置を媒介することによって、それを一定の感情的実在として、個人の中に主体化させなければならない。そういう意味では、聖書など宗教的経典の解説を媒介にして伝えられる宗教と神話の文学的ストーリーとは、そのままその地域から国家における人間的なイメージの主体化を与える社会的営みであった。

人が道徳を理解するためには、それを媒介する文学の装置が必要である。それを体系化して神話化し、全体的な重みと正当性を付与するためには、その文学的教示の一つ一つは、国家と宗教によって示される「物語」の装置によって回収される。

近代文学がスタートするにあたっても、その最初の機能とは、この道徳的主体化の装置を、国家が発明するところからはじまっている。道徳的主体化の装置とは、そのまま国家が国民的意識を確立させるための導入としてはじまるものであり、それは国家が宗教の力と連携することによって為されるようになる。

道徳的主体化装置としての文学の存在とは、国家と宗教にとってあるべき人間像の姿を指示する。しかしやがてその文学的装置の中には、指示されたあるべき人間像の姿を批判する意識も、人間的真実の把握として忍び込むように発展するだろう。そのようにして文学のシステムには、人間の全体的真実としての記述の姿が実現されるように完成されていくのだ。

近代文学はその全体的に展開された形態をもってして、一方では第一義的に人間的意識の確立と主体化の装置として働いたのであり、その社会的な教育=教養の機能を果たすメディアであった。また同時に近代文学にとって、国民として示される人間的意識、人間像の批判さえも、すべてその中で果たしうるものとして、近代文学自体の全体像というのを保ちえたのだ。

しかし、近代のある時点における映画の発明は、この教育=啓蒙の装置を文物の中から解放し、更に具体的で直接的で身体的な次元を回収する装置へと移行したのだ。映画とはそのような確実に身体化に働きかけうる、直接的なる大掛かりなスペクタクル装置として人気を得て発達したのだ。映画とは人工的なスペクタクルのための、かつての大掛かりなる再上演=再生産の装置である。