Dire Straits=ダイアストレイツの『悲しきサルタン』−ロンドンタウンの、祭りの後で

1978年、ロンドンから出てきたバンドはレトロスペクティブなブルースを、控え目で地味な音で奏でながら一躍脚光を浴びた。1968年には既に明確な形式が確立されて認知されていたといえるロックというジャンルの形式は、そこの10年間でもう爛熟を迎え、一回突き詰められた形式の密度を自らもう一度、単純な方向へと瓦解しなおすことによって、自己をムーブメントの形式として拡大していた。77年にロンドンは既に、セックスピストルズとクラッシュという二つの大きなパンクバンドを生み出していた。パンクロックの誕生による新しい活気は街に広まっていた。パンクによって前衛的なアートの意識が政治性をもそこに巻き込み、ファッション・ムーブメントとして拡大をはじめた一方、もう片方のロンドンの片隅では、既にレトロスペクティブな形式的ロックの再構築も為されていたのだ。当時はレッドツェッペリンの出していた重厚低音の響きを盗んでぎりぎりまで簡素化し、ラフでいい加減に単純化したセックスピストルズレスポールの使い方が、単純で重低音であるが故の安易な感覚の麻痺に溺れることを快楽として運び、ロンドンの街を表面的に覆っていた状態だった。

しかしそういう流れに対して、マーク・ノップラーの場合はフェンダーストラトキャスターをあえてピックを使わずに、指で摘んで弾いていた。最初に彼がサウンドのベースとしたものとは、既にサイクルが幾つか以前のものになっていたヴェンチャーズが使ったギターサウンドの手法をリサイクルしたものだ。トレモロとコーラスを響かせて、細い音を控え目に爪弾く。静けさの中に研ぎ澄まされたストラトの音が響く。ドラムの音はシャープで軽やかに飛ぶように叩く。

アメリカのブルースはロンドンタウンに輸入されてリサイクルされているうちに、それはブルースのジャンルとしても独自のものとなったのだ。そこにはブラック・ヘリテイジとしての黒さというよりも、ロンドンという都会の片隅、常に湿り気を帯びた石に囲まれた部屋の中で、心地よい疲労を身体の上で反芻させる。ギターのトーンが長く鋭く響く部屋の中で静かに癒していく、成熟した都会人のダンディズムとして吸収され、そこで解釈されなおした。これはホワイトブルースといっても、それまでのストーンズやアニマルズとも異質な世界だった。ロンドンタウンの街角に最も相応しいといえる、新しいロンドンブルースの誕生が、70年代の後半、ギタリストのマーク・ノップラーによってインスパイアされたダイアストレイツによってなされたのだ。

78年にデビューしたダイアストレイツのファーストアルバムが示した、記憶と対峙するイメージは衝撃的だった。このアルバムのテーマは「水」である。一曲目にある『Down to the waterline』で示された水辺のイメージとは、記憶の中にある出来事を静かに内省によって呼び覚ますための、湿り気と物事に流動性を加えるための潤いを、水辺のイメージによって喚起させようとするものだ。それは記憶の中に深く埋もれた、遠いイメージの内省的な正確なる発掘の作業にあたるため、水辺のイメージの導入とは限りなく慎重な手つきで、静かに、ゆっくりとした時間の感覚で、それを行われようとする。遠くから響いてくる記憶の足音が、レコードの中でじわとじわと漸近的に大きくなってくるイメージの時間的に膨張されていく様子とは、そのまま心臓の鼓動が、それと静かに一対一で向かい合われたときに、心臓それ自体で身体の内奥で膨張していくときの時間と同じものだ。そのとき聴いている者の身体とは、この音楽を媒介にして心臓という器官そのものと既に同一化して変身を果たしているものだろう。

一曲目で触発された水と記憶の遡行するイメージとは、二曲目の『Water of love』では更に、はっきりとした輪郭を与えられた明瞭なイメージとして聞こえてくるようになるだろう。スライドギターの流動する旋律の最大限に融解させられた音階の連続の中で、記憶の日の当たる場所へのシフトの移動の願望とは、肯定的で上向きの調子が楽観的に開かれるのだ。三曲目『Setting me up』で更に遡行の動きが表層的に掬い上げられるアップテンポを与えられた後、次の『Six blade knife』では、その活性化された身体的リズムの勢いを借りて、もう一度、こんどははっきりと明瞭なやり方でもって過去のトラウマ的実在の在り処に食い込むことになる。

"Water Of Love"

乾ききった 暑くて長い一日
毎日失い そして孤独だ
僕の周りから空の上まで 何もない 
僕にはちょっとばかし 愛の水が必要なのさ

僕は長く孤独でいすぎた 僕の心は痛んでいる
雨を請うて叫ぶ
もうすべてが済んだのだと 僕は信じている
ちょっとばかし 愛の水が必要だ

愛の水が 地中深くに /ここには水は全く見当たらない /ベイビー いつの日か 水は自由に流れ出すだろう /愛の水を僕に運ぶのさ

一羽の鳥が 木の上高くに止まってる
僕が死ぬのを見てるのさ
もしすぐに水が得られなかったら
僕はもう午後には死ぬだろう

かつて僕には 自分の女といえるひとがいた
かつて僕には女がいた でももう彼女は去った
かつてそこには川があった 今は石だけだ
君は そこで一人で住んでることは悪だと 知っているだろう?

愛の水が 地中深くに /ここには水は全く見当たらない /ベイビー いつの日か 水は自由に流れ出すだろう /愛の水を僕に運ぶのさ

レコードでB面の最初にあたる曲が、このアルバムの顔となったダイアストレイツの最初のヒット曲、『悲しきサルタン Sultans of swing』である。ロンドンの街でもマイナーな場所でジャズを演奏するバンドの景色を、薄寒いロンドンの曇り空の渋い輝きとでもいえる燻し銀のイメージの中に包み込み、そこにドラムビートでアップテンポを加えて、前向きで肯定的な前進のイメージを作り出すことに成功している。ここではヴェンチャーズの手法が加工されて、ブルースとジャズの中間にある欲動の静かでかつ秘められたアグレッシブな動きが、密度を高く、時間の中に込められている。

水のイメージを開示することによって最初に始められた記憶を遡行する道筋は、このように高密度の飽和を迎えつつある中で、アルバムの終わりに向けて、『Wild west end』によって、弛緩を与えられ、楽観的なる風景との同一化を果たすことができる。ロンドンのワイルドウエストを何処までも歩いていった思い出が、愉しかった記憶の一部として、自己を、あるいは記憶の関係における我と汝を幸福なイメージの反復へと導くのだろう。そしてアルバムのラストを飾る曲としての『Lion』とは、それら我々の記憶が赤い太陽の下で照らし出されたライオンのタテガミと同じもの、険しいと同時に容易に回収はされがたい厳しさと怖さと、そして屹立する崇高さをもった、他には還元不能なるものを伴った、我々だけの独自の存在であり、聳え立つ記憶の山であるという事が、ライオンのイメージによって確認されるに至るのだ。

これら文学的なイメージの発掘としてはパーフェクトともいえる、ブルースに依拠することによってそこに描写された、ダイアストレイツのファーストアルバムだったのだが、このアルバムではイギリスよりもアメリカのほうが評価が高く、よく受けいられたものだった。このアルバムで一定の成功を手にしたダイアストレイツは、それで二枚目のアルバムはアメリカで作ることになるのだ。