雨に唄えば♪

時計じかけのオレンジ」の中で示唆されていた終末論的な世界像とは、それでポストモダン社会のネガティブな極北的な実現を意味していたのだが、そのような世界像とは、インターネット社会と2ちゃんねる的な領域の相伴的な同乗によって、実際にももう既に実現されているのだといえるだろう。テクノロジーの機械がうんだ仮想世界的な領域が実際生活へ干渉しようとする抑圧的なシステムとして大きくなりつつあるものだ。

2ちゃんねる型というネット上の仮想空間だけではなくて我々の現実生活の世界さえもがキューブリックの描いた近未来の下町団地のような荒廃した姿を実際に、この先登場させるにいたるのかまではまだわからない。(あるいはもう既にそれは存在してるといえるのか?)

権力のオートマチズムの展開にとって「ディシプリン−パノプチコン」のモデルが古典的な近代型だとすれば(特に全体主義のメタファー)、ポストモダン型とは「コントロールマトリックス」ということになるだろう。ポストモダンにとっては支配権力の装置とは、情報化の次元に関与するものとなる。あるいはすべての街並み等や座るための椅子やベンチなど具体的な建築物というのを、すべてを情報化的位相において還元して捕らえる様になる。情報のコード化作用としての形式の自己増殖に伴う。

それは形式的自由の体裁を表向きとした形式的な放置の中から、自由に裏からダブルバインドをかけるかたちで、自動的に抑圧が完了させるようする、技術的な装置として実在する。情報化の配置をダブルバインドに導くためのスクリプト的な配置のコード化をさして、それは現代的な言い方をすれば『マトリックス』であるのだといえよう。

このような形式的自由と実質的支配の表裏一体性を実現させるのがポストモダン型の権力システムの特徴である。表面的な自由の体裁にあってはその裏面から忍び込む抑圧的機械とは不可視の次元に忍び込む。

モダニズムにあってはスペクタクル的な要素というのが、崇高映像、崇高建築、崇高な人民集会の可視的なエロスに基づいて欲望化される装置として一体化をなすものだ。(今でも北朝鮮的な現実の装置とはまさにそうである。)そのようなモダニズム機械的な体制にあってはスペクタクル性とはそのままプロパガンダの形式でありプロパガンダの方法論にあたる。

しかし「2ちゃんねる型」のマトリックスに見られるような、名無し型の権力や抑圧的ミクロファシズムの完成に至る形式とは、やはり日本の日本的なシステムの系譜学的な経緯にあっては、それが天皇制システムとの相関性から導かれうるのだろうという観点は歴然としてあるだろう。顔のないものを前提とすることによって象徴的にかつ逆説的に、支配的で代行的なシステムの安定がもたらされうる。社会的なシステム論の展開である。

2ch型システムがあまりに日本に特有の現象であったのだとすれば、それはもちろん天皇制システムとの連関の連続性からそれがもたらせているものであることを物語る。もし結局このまま2chを社会的な意識によって破壊できないのだとしても、それは要するに2ちゃんねるの存在が歴史系譜的にいえば、日本では天皇制システムの流れにあるものであり、だからそれは結局、天皇制型のコミュニケーション構造、顔の見えない顔の見せないコミュニケーションを前提させるシステムの、西洋一神教システムとはまた違った位相での否定神学的性質と代行作用的性質が、高度化された社会、そしてポストモダン的な社会ではよく機能しうるものなのだという事情を物語っている。結局いろんな多様な意味において天皇制を日本の社会システムは捨てきれないのだ。

このさき、2chに警察権力からの強制介入が入って廃止になるような事態になったとしても、インターネットの中で構造として一回存在を完成させてしまった、そのマトリックス型のスクリプトについてはもうwebからは消え去ることはないのだろう。(ネット上の悪質な行為に打撃を象徴的に与えるという意味では介入もありうるが。)

多かれ少なかれインターネット上の流通にとって、もっとも惰性的に、かつもっと自然主義的な生態として安定しうる型、構造の形態というのが、2ch型なのだろうという事実(つまり匿名名無し型の生成消滅の軽くて回転がはやい形態)は、もはや明らかなものになっているのだともいえる。2ch形式は自ずから自己増殖し生成消滅をこれからも繰り替えし、だからその形式的な構造自体はネットに定着しているので消えないだろう。

多かれ少なかれ、インターネットを中心として、2chによって自然発生的に完成されたこの構造の中で、人間的な意味でも動物的な欲望の無意識的な社会形成においても、付き合っていかざる得ないのだろうということになる。

もしこれがアメリカの社会であったのならば2ちゃんねる的な不明瞭性の鬱陶しさのシステムというのはもっと軽快に暴力的に、つまり自由に、これはいち早く破壊することができるのではないだろうか。だからこの先アメリカに2chが輸出されたとしてもそれは根付かないのではないかと思う。そして別になにかの共産主義的な革命が日本で起こればこの無意識的に天皇制的な性質というのが日本から消え去ることができるわけでも決してない。

天皇制的なものとはコミュニケーションの無意識的な条件として、なによりも歴史的な蓄積の地層であり、それが外見から不合理に見えようとも底は合理的な社会運営として発達してきたものである。コミュニケーションの無意識に巣食う歴史的で伝統的なシステムとは、対峙しそれと闘争するにあたっての次元においても、意識的なものとは弱冠異なる位相を取ることになるだろう。

天皇制システムの構造とは、その見えないシステムの中心部、核心において、それが「弱者」の社会的な擁護の名目による代行性に繋がっているということにある。だからいかなる告発も社会的な強弁性というのも、最終的には弱者には手を出すことが出来ずに(倫理的な理由から)諦めざる得ないということになっている。そのような本質諦観によって、社会全体の安定と安全性・セキュリティが守られうるということをさして、広義の「天皇制」システムなのであり、弱者代行型のコミュニケーション、言葉遣いや敬語の言い回しも含めて天皇制的なものの懐に回収されうる。

だから2chを擁護する身振りや、あるいは障害者運動のようなものであっても、最終的には天皇制的な代行作用の力によって回収されざるえない社会の歴史的な構造というのは根の深いものでもある。もう一つそれは核心部にはいつもモザイクを入れることによって見せることのほうが、システムはうまく回り安定しうるという考え方や体質のことでもある。少なくとも日本ではそのようにして伝統的にもシステムとは維持され続けてきている。

2ちゃんねるの存在こそは否定神学システムの現代的な完成のように見える。そのような完成とはダブルバインド・システムの完成態であることを意味する。ダブルバインドの捕獲装置でもって人間の存在を宙吊りにし、捕獲し、コントロールを無意識的にかつ自由の形式の元で合法的な枠組みの中で遂行することによって、人間存在自体を根幹から腐敗させているものだ。

そこで求められているのは形式的なる自由であり同時に隷属的な体質である。無責任システムの完成であるのと同時に差別機械の実現であり動物的な糞便処理機の妄想的完成である。ヴァーチャルリアリティによって解放される動物的な惰性の傾向性の機械の必然の成り行きであり、顔のないマトリックスが執拗に個人の動向を無意味に管理しはじめるというインターネット社会の現実の傾向である。

バタイユは顔のない頭の持ち主(アセファル=無頭人)を想定すれば、否定神学弁証法的上昇はうまくいくのだと想像したのだが、しかしそのバタイユの思惑は現在の段階では外れまくっているとしか言い様がない現実であるのだろう。実際には顔のない唯物論的な現実が、しかし現在の社会機械のあり方では、このように欲望の、ファシズムの限りないパロディともいえる惰性的でだらしのない悪の方向に持っていかれてしまうという我々の目の前に投げ出されている結果とは、本当に皮肉としかいいようのないものである。

それがパロディとしてのファシズムであるという無責任性のその喜劇的な自己言及性においてこそミクロファシズムのリアルな条件なのであるという事情も決して忘れてはならない。