『時計じかけのオレンジ』

スタンリー・キューブリックの1971年の作品『時計じかけのオレンジ』の中には管理社会化の現在的な展開にあっては、予言的なものが多分に含まれていたのだろう。

映画の舞台とは近未来を思わせる設定だ。具体的にはよく定かでもない舞台の設定なのだが、アメリカあるいはイギリスの郊外がシチュエーションとしては当たっているのだろうと思われる。ソーホーの下町の団地のアパートメントに住む若者たちの不良グループは日夜蛮行を繰り返している。

主人公の青年アレックスがリーダーとして番を張るグループにとって暴力、略奪、レイプは日常茶飯事のようにして行われている。そして不良少年たちのグループはグループ同士の間でも対立しており抗争を繰り返している。近未来を予想させる社会の舞台での、無機質の性質が露わにも剥き出しに見える未来的な街の光景の中で、管理社会に生きる人間たちにあって、悪徳の栄え的な世界の全面的に開花して展開している有様を描き出している。

末期症状的な社会性の展開の有様である。その終末論的な世界像をキューブリックはとてもコミカルな演出でもって提示しているものだ。キューブリックの提示する世界像はリアルである。我々がこの映画を眺めるときにいだくこのリアルな感触の由来はこの映画の中の何処にあるのだろうか。

不良少年たちの暴走とは止まるところを知らないように見えた。深夜に集合し車を暴走させては、郊外の一軒家を襲う。時にはその標的は老いたある反体制作家の家であったり。家の中にうまく忍び込んでは反体制作家の女房をレイプし、拷問を加え、略奪して帰ってくる。…しかしあるとき仲間内の対立から、アレックスは犯罪の最中に裏切られて、警察の手に引き渡されることになる。アレックスは遂に逮捕されて刑事たちの尋問を受ける。刑事は尋問されながらもシラを切るアレックスに対して嘔吐を覚え、アレックスの顔に唾を吐きかけた。アレックスは裁判を受け懲役刑が確定しそうして監獄に送り込まれた。

悪徳の栄えを全開にして開花させる光景を描いたのが映画の前半部だったが、アレックスの逮捕以降はそれら悪についての社会的な反省的な捉え返しの過程が展開されるものだ。この映画のテーマとは、要するに人間の完璧な矯正とはどのようにして可能なのか、という問いを巡って探求されるものにある。人間の中の悪を封じ込めて抑圧する、そのようにして完璧に管理しうる人間を作り出すこと、人間的生に対するコントロールとは可能であるのか?またそのようなコントロール、完全管理社会が求められたところで、その実態とはどのようなものになりうるのかと問いとともに進行しそれを描き出すことにあるといえる。

監獄に送り込まれた後のアレックスというのは一転して模範的な生活を送るようになる。このアレックスの豹変的な変貌の姿とは、やはり凶暴な凶悪犯だったアレックス自身とは元々は鋭敏な人間的な感受性の持ち主であったかのような解釈もうむだろう。アレックスはそのようにして囚人生活の中で、監獄の管理者の中からも一目置かれる存在となる。監獄の中のホモたちからは真面目に集会で牧師の世話をするアレックスに向けてラブコールが送られる。

監獄の管理者というのは、この映画の中ではまず主任の管理者はヒトラー似の井出達で演出されていて、管理者たちの全体的な動きというのはナチス的な演技にも似ているものとなっている。監獄生活の中では彼は優秀な模範囚として振舞った。聖書もよく読み、従順な迷い羊のふりをする演技も的を得てうまくいった。

模範囚人のアレックスはあるとき、特殊な任務の要件にあたって抜擢されることになった。それは科学者のグループによるものだったのだ。もう治癒の不可能だと思われている悪性を抱える囚人について、それを完璧に科学的に治療しうるプログラムを開発している。それの実験台としてアレックスが抜擢されたのだ。暴力、悪徳、非行、残虐な性愛性をめぐる人間的な悪の存在論について追求されうる。人間の中の悪を殺すにはどうすればよいのか。彼を実験台にして科学的な研究としてそれが進められる。ここまでくれば、キューブリックは明らかに管理社会の進化論について近未来的なレベルに焦点をあてて問題を構成していたのだとわかる。

象徴的なシーンとは、映画の上映室の中でアレックスの目の瞼に金属製の枠をあてられて、目を閉じることができないようにさせられて座らされた姿である。強制的な条件を加えてやって、身動きがとれないようにし、かつ彼には残虐な映像の連続を見させる。ありとあらゆる、人間の残虐な映像をのシャワーを彼に強制的に与える。どんなに彼の中に嗚咽感が人間的に訪れようとも、決してその映像の上映を中断しない。目を開け放しにしているので彼の目は乾燥するのだが、それは定期的に目薬を与えてやることによって続行される。(これはキューブリック的な重要なテーマの一つである「アイズ・ワイド・シャット」という概念にあたるのだろう。)

人間の中の悪の要素を抑圧するにはどうすればよいのか、刑務所の中での実験台として彼は活躍することになる。この映画の中では、人間の完璧な矯正とは可能なのか?だとすればそれはどのようにして可能なのかという問いについて探求をめぐらす。完璧な社会的治療のプログラムを訓練させれたことによって、アレックスは自分が以前のような悪行をしようすると必ず嘔吐をするような条件反射的な体質が完成させられるようになった。

実験の成果とは、科学者、政治家、監獄や警察の中の権力者たちをまじえたストリップショーの舞台でお披露目されることになった。演台に上げられたアレックスは舞台上のストリッパーの女に手を出そうとすると必ずや嘔吐がこみ上げてその場に倒れこんでしまう。拍手喝采を浴びながら、この新しい科学的な治療プログラムというのは、成功したと思われた。政治家はこの治療プログラムをメディアに宣伝することによって政治的に利用した。アレックスは一躍、完璧な矯正を施されて完成された「新しい人間!」として世間でも有名になり、刑務所の刑期も特別待遇で切り上げられて、出所できることになった。どんな悪い子羊であってもこのようにして矯正し更正させることが可能なのだと、彼は宣伝の材料にされる。

アレックスは生まれ変わった晴れ晴れしい気持ちで出所したのだが、しかしアレックスの戻ったシャバの世界とは、もはや以前のようではなくなっていた。パパやママに愛されるために実家に戻ってみれば、もはやそこにはアレックスの次の新しい息子の役割の人間が、正体不明にも居座っていた。家族に絶望したアレックスは街にさまよいでる。

公園で絶望に打ちひしがれているときに出会ったのは、昔、自分が襲撃したことのある浮浪者だった。アレックスの顔を思い出した浮浪者は怒りに震え、仲間の浮浪者たちを呼び寄せて、アレックスに復讐としての集団リンチを加える。そこに警察官が二人通りかかり、アレックスは助けてと思いきや、すがりついたものの、その警官とは以前のアレックスの不良仲間で最後にアレックスを警察に売り渡した張本人たちだった。アレックスはこのようにして警察からも追われてひたすら逃げ出すことになる。

嵐の土砂降りの中でずぶ濡れになりながら彼が逃げてやっと無意識的にもたどり着いた先というのは、かつて彼が略奪しレイプをやったことのある反体制作家の家だった。そのときの反体制作家の女房とはもう自殺で死んでいた。今では車椅子にのる(過去のアレックスの襲撃の後遺症によって)老反体制作家は新しい屈強なボディビルダーを警備人として雇って住んでいた。反体制作家はアレックスをかくまってからじきにアレックスの正体にも気付いた。さて、アレックスをどうしてやるべきなのか?反体制作家の脳裏にはアイデアが駆け巡った。…

反体制作家にも正体を見抜かれたことを悟ったアレックスは逃げ出し、そして自殺しようとする。しかし自殺は未遂に終わり、病院に担ぎ込まれる。アレックスは病院のベッドの上で意識を目覚める。アレックスの元には新しい訪問客が訪れた。それは以前アレックスを使用した政治家と対立陣営の政治家だった。

アレックスのこの事件を私が、かの政治家を攻撃する材料として使いたい。どうか君も協力してくれないか、と持ちかけられる。アレックス君には、特別の待遇を用意しよう、と。これがあの反体制作家のアイデアだったのか…アレックスはそして新しいオファーに頷く。このようにして完璧な治療は完成された、というテロップが入ることによって、映画はそのコミカルなエンディングでもって幕を閉じるのだ。