名無しの共同体の功罪

ハッカー文化にも起源を見つけることは出来るとはいえ、それとはいささか違った位相で独自に発展を見せた2ちゃんねる的な文化ではある。繰り返しいうが、それ自体は巨大な規模に膨れ上がってるともいえる大量の掲示板の群であり、どちらかといえば匿名の名無し制コミュニケーションというのが、情報交換、意見の交換、その場限りとすることによって割り切ったドライな交流においてうまく機能してる板は多いのではないかと見受けられる。

しかし2ちゃんねる2ちゃんねるたる性質とは決してそれだけには止まらずに、常に裏の次元、裏の扉というのを、用意しうるところにその本性はあるものだ。差別性の連鎖機械的な増殖、有名人や公的な存在だけではなく、一般人レベルの対象へも向けての、誹謗中傷、ストーカー攻撃の増殖、嫌がらせのテクニカルな次元でのそれ自体の発達といったものを綜合しながら、掲示板群の裏の機能としては、自然発生的な相当規模にも渡って膨れ上がった差別機械の連鎖を示している。

ここで見られる現象とは、いわば名無し型権力、名無し型ファシズムの発生というものである。権力の最終形態とは結局それが名無しとしての顔のない匿名の、自動的な権力支配装置になることである。権力それ自体の完成とはそのような事態のことを指して他ならない。そしてまたファシズムの最終形態といえるものも名無し型ファシズムといったものになる。そこで排他的で差別的な全体性を束ねうる主体というのも、もはや姿かたちの見えない名無しの存在という事情になっている。

それは名無しであると同時に、集団的な共同の何かの欲望の権化なのでもある。何かの集団的な怨念が、顔のない結束を実現している電話線の向こうにあるのだろう仮想空間上に浮かんだ不気味なる名無しの共同体の姿なのだ。それはファシズムとして実現されうるとしても実体としては、限りなく薄く限りなく透明なものであり、暴力装置を作動させる表層というよりも、ただひたすらに純粋化された排他作用、差別作用といったものに徹することになる。

そのような行使の主体とは常に顔のない、のっぺらぼうの亡霊的な装置の作動である。(まさに2ちゃんねる的なヴァーチャル暴力の生態そのものであろう。)権力はその主体的な核心が名無しであることによって「無責任体系」とかつてはいわれたものを本当に実現するに至る。これは権力装置の技術的に進化した姿としての、完成態ともいえるだろう。誰が好き好んでこのような装置を完成させられる設計図を書きえたのかも定かではないが、テクノロジーの進化の流れの中では、権力自身の無意識的な知恵としても、このようなテクニカルな装置を完備するに至ったのだ。

全体主義についての具体的な社会体制のあり方とは、かつてはナチズムとスターリニズムであった。ナチズムやスターリニズムの要素とはそれらがスペクタクル社会の産物でありそのシステムであるという事である。可視的な権力の増大でありその壮観で崇高な景色をシステムの根拠にする。このような全体主義の存在様態にあっては、社会は全体的な統一性として、それは建築物としても、国民的な集会の形式についても、意識の思想的な持ち方においても、モダニズムの次元というのが一極集中的に極端にかつ歪に凝り固まって形成を遂げて実現された姿ともいえるものだ。

それはある種のモダニズムの極北的な実現であったのである。そこでは人間の画一化、均一化というのは、労働者理念の至上主義のプロパガンダからも窺い知れるように、理想的な身体像の提示についてとことん画一的に押し付けて強制していくことにあったのだ。企画からはみ出るような要素、輩については非国民的な観点から暴力的な制裁を辞さない。ナチズムのイデオロギー的な実現が理想的労働者の実現という理念についての宣伝様式を取っていた事実とはそのような事情を物語っている。

しかし現代社会の高度化、情報的な文明の高度化された完成の時点においては、権力のこのような生態性、ファシズム的な剰余価値の産出形態、およびファシズム的な統一性の欲望の装置というのは、すべてもはや過去のものである。ファシズム的な全体性=共同性の本質が排他的で抑圧的な集団的結束性を強化することにあるのだとすれば、もはやファシズムとはマクロに渡ってプロパガンダや集会を全体的スペクタクルによって組織するものでは本当はなくなったのだ。(一部、北朝鮮やアフリカの独裁国家などではそういう古典的近代の形式としての全体主義体制が生き残ってはいるものだが。)

ファシズムとはマクロに組織されるよりも、今ではミクロに忍び込ませる、ミクロに拡散させる、ミクロに機能させる事のほうが、はるかに現実的なものとなり、また実際にそのような形式でもって、情報の次元から社会的な具体性の現場まで、我々は遭遇するに至っているのだ。

ファシズムの生態とはそこではもはや全体的なスペクタクル的なビジョンのあり方というよりも、むしろミクロなウィルスのような偏在体に化けている。ウィルスのようにミクロで融通無碍、変幻自在、それは物質的な建築というよりもむしろ、情報化的なコード、スクリプト的な形式、マトリックス状のダブルバインドの配置性として、何処までも伝播や感染を拡大していくことができるのだ。(特にインターネットとはその格好の媒体である。)

そのような生態の権力、ミクロなファシズム性とは、どのようなジャンルさえもその病気に感染させてしまう性質を兼ね備えている。このようなミクロファシズムとはいわば抑圧権力の完成された性質であるのだ。そこでは抑圧する主体は常に無責任を装い責任を他へ転移し続けることができる。実際には非常に下らない誰かがやっている仕業だとしても。特定しうる誰かは、再び匿名性と名無しの連鎖の中へと逃げ込んでしまえるようになっている。

サイバースペースの中のミクロファシズムの生態にとって構成要素となりうるのは、それが『名無し型権力』であり『名無し型ファシズム』であるという条件である。ミクロファシズム的な抑圧性とは剰余価値の簒奪的な再生産、他者の身体的な搾取のためにはもはや暴力さえも、そんなには振るう必要さえなくなっているのだ。「野蛮な」暴力性とはもはや権力の立場からさえも嫌われているものであり、あえていえば権力さえもがもっとオシャレナものになっているのだろう。

あくまでも形式的非暴力とは、権力やミクロファシズムの立場からも遵守されねばならない条件となりうる。何故なら抑圧性とはそれが完璧に機能しうるときにはそれが精神の抑圧である以外ではないのであり、精神や神経を真に殺しうるためにも、暴力とは余分なものであり、むしろ情報化の次元の完璧なコントロールデマゴギーの流布、隠蔽、歴史的な事実の修正こそをそれは望むのである。