2ちゃんねる型マトリックスの発生

1.
2ちゃんねるは本来としては、匿名性を装うスタイルが主のインターネットの掲示板であるのであり、情報の交換、意見の表出の最大限の自由な享受、享楽が求められていたものだろう。しかしそれの羽目の外し方であるのか、実際に情報流通のアナーキズムに任せる匿名の仮面にかけた欲望の表出は、単なるアナーキズムや自由の趣味的な範疇を超えて、実態は悪質なものとなってくる。

もちろん巨大掲示板として進化した2ちゃんねるの全体的な運営にあって、すべての掲示板がそのような悪質な欲望の犯罪的な使用に及んでいるわけではない。どちらかといえば匿名で書き込むという条件がうまく機能しているよく機能している掲示板が多いのである。

2ちゃんねるはその発生的な拡大を元手にして今では一個の企業的な展開をしている。2ちゃんねるの拡大した機能をかき集めてそれらを商売に結び付けている事によって大量で多額のサーバーを利用した匿名掲示板が成り立っている。2ちゃんねる本や2ちゃんねるグッズの販売、特殊なログビューアーの販売やプロバイダーの運営事業などである。2ちゃんねるは最終的な位置付けとしては個人の私的管理の掲示板という規定がなされている。要するに運営およびその個人の管理の裁量権を使ってかの個人のための商売上の運営を養う体制ができているのであり、2ちゃんねる自体で運営が一個の資本なのだ。

2ちゃんねるの最終的な存立構造とはそれ自体で利益を生み出せるための商売になっている。商用に結びつく掲示板の拡大にとってその基盤になっているのは、ヒット件数の多さである。2ちゃんねるが、常に社会的なネット犯罪の次元を巻き込みながら、一部では有害サイトとして社会問題化されながらも、いまだその命脈を保っていられるのは、そのヒット件数の多さによるのだ。2ちゃんねるの最終的な実体とは、個人事業の商売でありその資本なのだ。

2ちゃんねるが骨子として最初に提示した構造とは、単なる掲示板のデザインであり、そのマトリックス上の配置であり、匿名掲示板としてのシンプルで合理的なスタイルにすぎなかった。故に、今では2ちゃんねるスタイルの匿名掲示板とはそのスクリプト2ちゃんねる以外にも無数に拡大して広まっている。だから2ちゃんねるが警察権によって強制的に閉鎖させられても、そこで完成された匿名掲示板のスタイル自体はネットの中から消えないだろう。

ただ2ちゃんねる名によって横に大きく拡大できる情報網およびその犯罪的な活用については抑制されうるということはある。2ちゃんねるが一回廃止になれば、そのダメージ自体は大きく、その後も匿名スタイルの掲示板は残るとしても、いろんな意味で縮小的で抑制的なプレッシャーは自ずから強くなるだろう。

2ちゃんねるの機能とは、書き込みのメッセージの裏表性の機能が強力に反映されることにある。匿名で情報を好き勝手に書き込めるという事は、嘘の情報を書き込んで流通させることの愉快犯的な享楽を刺激する。ゆえに書き込みの文章を見たときに、それを本気だと思って騙される奴のほうが悪いのだ、というある種のニヒリスティックな性質の共有が慣習化される。

そのような悪趣味の共同体が顔の見えない相手の正体も定かではない妄想的な空間で、微妙に発生するのだ。実はこれが2ちゃんねるを使うネット利用者に与える精神的な悪影響というのは計り知れないものがあるのだ。ネットの暗闇の中で名無しの機能、匿名の機能、あるいは騙りやナリスマシの自由を使って日がなに無制限に行われる営みの作り出す顔の見えない共同体というのは異様に不気味なものに変容していく。

2.
 酒井隆史はパノプティシズムのフーコー以後の展開について次のような事情を指摘している。

ドゥボールは…「情報操作」というコンセプトの作用を分析している。それはもともと社会主義圏で公式に用いられていた用語であり、それが輸入されて欧米で日常的に使用されるようになったらしいが、手短にいうと、特定の言説を敵対するまたは競合する権力が流した意図的に捏造されたデマであるとフレーミングするための記号である。ドゥボールによれば、そのコンセプトが活用されるのは、経済的あるいは政治的権威を一片でも分かち持っている人びとが、既存の秩序を維持するために、である。・・・「情報操作」なるコンセプトは「つねに反撃的役割を負っている」。したがって情報操作は、「公式の真理に対立する」ものであるが、ここで重要なのは、「情報操作」が単に「公式の事実」と対立する「ストレートな虚偽」ではない、ということである。
(『自由論』恐怖と秘密の政治学−パノプティシズム再考

ここで云われてる「情報操作」とは基本的には、国家的な体制が反体制的な社会運動などについて、たとえば過去にはそれらがソ連による情報の歪曲を経ているものなのだと宣伝することによって退けるやり方に見られるような、ある種のレッテルの流布によってそれが危険なものであると思わせる方法論のことを指しているという。

ドゥボールの云ったのはスペクタクル社会という社会規定であった。そして資本主義の現在とは統合的なスペクタクル社会であると見なされている。資本主義の体制的に提示される、平和や幸福の世界ビジョンというのはスペクタクル的な見世物としての虚偽や捏造を含んでいるのであり、そのスペクタクル性に対して投じられる社会批判をいかにして封じ込めるのかというポイントにおいて、このような情報操作の概念とは機能しうると考えられている。

フーコー的なパノプティシズムとスペクタクル論が対比されるときは、現在の統合的スペクタクルの時代では、不可視および不在の度合いが濃くなったものと見なされている。よく見えるもの(過視的)として権力的に提示されるスペクタクルの次元は、監視や支配隷属構造の内面化の次元では、そこではスペクタクル的というよりもむしろ見えないもの、不在のもの、亡霊的な実体というのを作用させる仕組みによって全体的な取り込み(統合化)を機能的に実現している。

それらは以前のような人間的な実定性を前提とする支配というよりも、機能的に振舞う事の柔軟性を兼ね備えた、没人格的でミクロに細分化される身体性の断片的部分性にも働きかけてくることのできるという社会機械として、より洗練もされていく。しかしインターネットの急速な進展がもたらした結果とは、情報操作の新しい次元でありかつてはあり得なかったような強烈な次元なのだ。インターネットの普及効果は結果として確実にパノプティシズム自体にに進化を与え、監視社会のメカニズムの新展開をむかえてかつ全面的な展開をもたらしたものだ。

情報操作の境界を公的に確定すればそれは効果を減少させてしまう。むしろそれは境界を確定することによって、自らの情報操作性、あるいはより一般には完全性を問わなくするための否定的な操作なのであり、ゆえにそれは融通無碍で汎用性に富んでいなければならないのである。この情報操作というコンセプトに正確に該当するものは類のものは日本では見当たらないが、ここではこの言葉が機能する様式はきわめて興味深い。

境界のあえて確定させない匿名性を利用した空間の中で、さらに境界性の人格障害の中から繰り出されるように見える差別的な攻撃性を放出しつづける2ちゃんねる的な遊戯空間の中では、利用者たちが次から次へと開発するまさに融通無碍なる差別的な文体・文章の定形、アスキーアートと呼ばれる絵文字を更に複雑に展開させた形の空虚なラインのフォルムに包まれた、ひたすらに無機質で諧謔的な絵柄のコピー&ペーストの連鎖といったものが錯乱的に日々振りまかれている。

このような顔の見えない人間的な遣り取りの中では、むしろユーザーが発狂してしまわないほうが不思議なのだ。自宅に引篭もり元々精神的に難のあった人間たちの織り成すこのような業の連続は、2ちゃんねるの薄暗闇の向こうでは、更に人格的な障害性を増して強化しているのは間違いないのだ。これは異様な悪循環である。しかも現代人にとって最近突然現れた非常に病的な領域の現象性なのだ。

衆愚的で社会の下層的な底辺から突き上げる排他的で差別的な欲望の流れというのが、大きく渦をまいて、悪質な事件を構成してしまう。もはや驚愕すべき情報操作の力とは、このようにしてインターネットの媒介によって社会の最も下層的な衆愚性、大衆性の中のネガティブなる陰翳部分によってなされるにいたったのだ。

このような顔のない名無しの得体の知れぬ不気味な大衆的共同性の流れとは、どのような赤信号も全く無責任なやり方でもって渡り切ってしまうのだろう。そしてこんな危険な事態を平然と実現してしまえるような機械がかつてあっただろうか。インターネットによって構成される平面によって理想的にはスーパーフラットの次元が実現されるべきではあったはずだとしても、実際には、2ちゃんねるのような大衆性と数量的な卑怯の増大の陰に傘を被せた故の卑小性の限りない合流としての巨大化なる顔のない欲望を経由することによっては、それは社会のスーパーパノプチコン化というのを実現したまでに至っている。

3.
2ちゃんねるが最初に立ち上げになったのが1999年くらいというのだから、このインターネット特有の特殊な現象については、まだまだ解明も遅れている。しかし確実に、若い子供たちから年配の人間たちまで含めて、この2ちゃんねるマトリックスの空間によって蝕まれる異常なる精神的破壊および身体的な破壊というのは実在している。

これは現代に突然振って沸いたように現れた、WEB空間の中に浮かんだブラックホールともいえる空間性なのだ。ここでは匿名である、相手の顔が見えない、相手に顔を見せなくてもすむという条件が、倫理的な柔軟性としてのコミュニケーションを生むという傾向よりも、実態は全く逆に、差別的な応酬の形式の独自の発展、顔の見えない個人の想像性から妄想性の限りない自己肥大、そしてラインによって媒介されると同時に閉ざされた、絶対的な距離の遮断に安心して開き直ったヴァーチャルな暴力的攻撃性の限りない排泄、卑怯と卑劣の技術論的な肥大化といった、最も人間の欲望にとって惰性的な傾向性を中心に表出しているものに堕落している。

これ程までに完成された悪徳の空間というのが、かつて人類史上にもありえたのだろうか?それほどまでに目を疑いたくなるようなインターネットの人間的自然としての醜悪な側面を見事にも見せつけてくれる。そこにあるのは、仮想現実の力を借りてフルに開花された悪徳の栄えであり美徳の不幸の、仮想でありながらも本当は現実化されて実現されているに違いない、世界像なのである。むしろ我々はこのような世界にネットのラインを通じて目の当たりにして、これが架空の仮想の世界などと思ったり思わされてしまうことのほうが、より多く欺かれているといえるだろう。