クロスロード−イギリスとアメリカのあいだに

音楽史について考え直す。僕は昔から、現在のロックやポップミュージックなどを聞くにつれ、そのルーツからして、系譜学的に捉え直してみるのが好きでして。それは僕の趣味のようなものであったのですが。ロックの前にはジャズがあって、その背景にはアメリカの黒人コミュニティのブルースや、ブラスバンドの形態の音楽があって。それとは別のところにはまた、ヨーロッパのクラシック音楽のような形式の纏まりと発展史があって。またそもそも、クラシック音楽の形式がかのヨーロッパで確立したのは、どのような事情のもとであったのか。とか、云々と…。たとえば僕が普段から聞いていて、ロックやポップミュージックのような形式さえも、もう完全に終わっているとの印象。認識を持ちます。思えば、「ロック」という、幾分か捉えがたかった音楽の形式というのも、短い命だったような気もするのです。

BEATLES」がイギリスでデビューしてブレイクしたのが、1963年くらいでしょうか。ビートルズの前身には、アメリカから彼らの元に輸入されていたエルヴィス・プレスリーや黒人のロックンロール、リズム&ブルースなどの影響があるのですが。ビートルズの登場の後は、「ロック」という、この幾分か単純化された音楽の形式が、強烈なる伝染病のようにも、イギリスを駆け巡りアメリカに飛び火し、全世界的な文化現象になりました。この幾分かシステマティックに単純化された音楽の形式。というのは、そのわかり易さゆえに、音の構成と配分における順列組み合わせについても、もう最初から殆ど限界づけられながら。常にそのジャンルとしての音楽の形式も、意識されながら、進行していた。全体としての、ひとつの事件のようなものだったとも、考えうるとも思うのです。それはこの現象に、系譜的な、音楽史的な診方を導入してやれば、面白いように明らかになってくるのではなかろうかと。それが僕がここでやってみたいと考えている、企みなのです。

ロックという音楽のジャンルをめぐって、その起源的な綜合が行われたのは、イギリスであった。ビートルズリヴァプールです。ローリングストーンズ、アニマルズ、ヤードバーズ、・・・といったグループは、ロンドンのクラブカルチャーから発生しました。しかしそれは、何故にイギリスであったのでしょうか?ロックのルーツにあるのは、間違いなくアメリカで先行する音楽でした。それは黒人のブルース・カルチャーです。しかし、アメリカではこの黒人文化というのは、商業的にいって、一般的な表舞台として扱われ語られることはタブーでした。確実にアメリカの黒人コミュニティの文化圏では面白いスタイルの音楽が独自に進行していた。しかし、50年代には、アメリカの表舞台たる白人文化の層が、それをそのものの重要な価値として、直接に取り上げられることは、まだまだ躊躇われていたのです。

当時、黒人ブルースが綜合的に交通をなしていたのはシカゴでした。いわゆるシカゴブルースの時代です。そしてシカゴには幾つかの大きなブルースレコードのレーベルがありました。CHESSレコード(マディウォーターズ、ハウリンウルフ、ウィリーディクン、・・・)。COBRAレコード(バディガイ、マジックサム、・・・)といったものです。これらのシカゴブルースのレコードを中心として、黒人ブルースがイギリスに輸入されるわけです。50年代から60年代にかけて、イギリスで、ロンドンなどで、黒人ブルースのレコードの流通というのは、まだまだアンダーグラウンドであったといいます。アメリカからの輸入盤として、それらの情報は入って来るのです。そしてナイトクラブのような場所を中心として、そういったアンダーグラウンドな情報の取引がなされていたのだといいます。黒人のブルース文化を発掘することを為したのは、イギリスの(特にロンドンの)白人の若者層だったのです。その代表的なものが、ローリングストーンズとヤードバーズでした。

ストーンズヤードバーズに先行してイギリスで大きな成功を最初におさめていたのは、もちろんビートルズです。ロックの草創期のイギリス、ロンドンというのは、この「ビートルズ」という最初の巨大スターに、競争し対抗する事件として動いていたのでしょう。ビートルズがやはり、アメリカのポップカルチャーを身に纏いながら登場したのだとしても、それはまだまだプレスリー系の白人ロックンロール色が強く、そして彼らがそういったアメリカンポップと融合させたのは、イングランドのフォークミュージックのようなものであったのに対して。ロンドンで興った、ビートルズに影響を受けながら、新しい独自の音楽スタイルを発明しようとして対抗する層というのは、黒人ブルースへの傾倒を深めていくのです。ヤードバーズというのは、60年代の一時期に活躍しただけで解散してしまったロンドンのバンドでしたが、このバンドに在籍していたのが、要するに、エリッククラプトン、ジェフベック、ジミーペイジです。(ジミーペイジは、ヤードバーズには、最初はベーシストとして参加しています。先の二人に比べてジミーペイジはあんまりギターが上手くなかったのです。ジミーペイジはヤードバーズの後にLED ZEPPELINを結成し大成功をおさめます。)この3人のギタリストというのは、ロックの基本形を作って発展させた歴史的な基礎的な担い手の中心的存在です。そしてこの3人というのは、大変にロンドンの近所の住人の間柄であったと考えられるのです。

黒人の声に耳を傾ける白人達という図式。とは、このようにイギリス・ロンドンで成功した絵であり、一般化したものだと考えます。そして耳を傾けて熱心にそこに聞き入る白人というのが、エリッククラプトンであり、ローリングストーンズのメンバー達、ブライアンジョーンズやキースリチャード、ミックジャガーであり、そしてジョンレノンであり・・・。それはそういったsituationを特集し報道するテレビジョンなどの中の映像の、フレームに収まる絵としてです。しかし、アメリカではそれがうまくなされなかった。元々はみな、それらはアメリカで起こっていた事件であったのに、かかわらずです。しかし、こういった絵、図式というのは、どのようなメカニズムの、社会的な精神性から導かれて出てくるのでしょうか。 それはイギリス・ロンドンの60年代の持っていた街の空気です。これはイングランド・ロンドンの左翼的な雰囲気の高まりと相関しているわけです。60年代のロンドンとは、まさしくそういった意味でのCROSSROADSであったのです。

「BLUES」というのが、元からすぐれてキリスト教的な精神性であった。黒人達の農場労働の中から、隷属的な労働環境の中から、そこに堪えて生きる人々の、あるいはそこから脱出したいと願う欲望の、精神性の支柱のようなものとして出てきた。発展した。労働・哀歌として。希望のない、「NO FUTURE」な人々のささやかな芸、慰めとして。それはゴスペルも然り。ゴスペルは黒人達の教会音楽です。そしてゴスペルからリズム&ブルースが発生しました。アメリカで、黒人のブルースに平行して、白人層の持っていた音楽とは、カントリーミュージックですね。それは、「ホンキートンク」といった種類の酒場演芸のようなものです。これは確実に、黒人コミュニティの中の音楽を、白人が横目で見ながら、それらが相互に影響を受けながら発展したのです。しかしその起源が実は黒人にある。あるいは逆の立場から言えば、白人にある。白人のやっていることを横目で見ながら黒人達も、技術を盗んでいったのだ。といった真実は、暗黙の了解としてはあるものの。それを表立って表明されることは、タブーとみなされていた。なんというか、それはドイツでのある時代における、フロイトハイデガーの関係のようなものにも見えるのですが・・・。

黒人にとって、ブルースの音楽のもたらした開けというのは。隷属的な労働環境の中で堪えて生きるだけというよりもむしろ、同時に、そこから逃げ出したい魂、逃走する欲望として、このブルースという芸を、身につけ始めたのでしょう。自分はブルースが出来る。ギターが弾ける。歌がうたえる。といった条件が、彼に、一個の黒人に、芸人としての、生活の、人生の逃走のラインを与えた。じきに、黒人ブルースのためのレコードレーベルというのが確立するにつれて、ブルースというジャンルが資本化されたエンターテイナーとして整備され確立されはじめるにつれて(それはミシシッピ・デルタからシカゴへの、ブルースの中心の移行にも重なると思いますが)、それはアメリカに生きる黒人層にも、「剰余価値」への開け口を拓いたという経緯にあたるのだと考えます。実際、黒人音楽の独自の生産および流通網というのも、だんだんと発展して確立していくわけです。資本主義とその社交性の高度化に対応する、洗練された、ダンスミュージックのようなものは、デトロイトにあったモータウンレコードのような資本組織が担うに至ります。黒人音楽というのが、アメリカ社会の中に位置付けられていくプロセスというのは、そのまま黒人用のレコードレーベルの創出によって、organaizeが為されてきたのだということです。それはシカゴブルースのCHESSやCOBRAといったレコードレーベル。そしてデトロイトモータウン・レーベルといったものの、組織=資本的な動きと共にでした。戦後の歩みの中でも、黒人がそのまま白人達の大手の資本に入れるはずが、とてもないのでしょうから。黒人コミュニティの文化にとって、黒人達のためのレーベルを超出的に創り出すということは、必至の事情でありました。

アメリカの50年代流行の白人系ロカビリーと、イギリスで60年代に、その影響を吸収しつつ起こったロックとの違いとは、結局、何かというと。これは、基本的には、白人ロカビリーがプレスリーのようなものに、象徴的に代表されるとして。それは中心的な一個のシニフィアンとしての歌手が根源的な「声」をもって語りかけるスタイルであったのに対して。(つまりそれは、シニフィアンとしての声の、中心的な屹立であり、バンドの音楽というのはいつも、その中心に付随するようなものに過ぎなかった。)イギリスのロックのスタイルというのは、バンド中心主義的な形態。つまり、友人達の友情的なcollaborationとして演じられていた。という点にあるのではないかと思うのですが。ビートルズローリングストーンズのようなものを見れば、それはよくわかると思います。つまりイングランド勢というのは、そういう意味でも自ずから、collaborationismを模倣していたのです。それはロンドンという都市の持っていた前衛性の空気にも繋がっているのでしょう。アメリカのプレスリー系のようなものは、それに対して「大統領」主義的な男根性、父権性のようなものを模倣しているように見えます。