老人とテレビ

老人ホームの中にある光景を想像してみよう。一人の老人が、テレビの画面にずっと見入っている。彼はまず朝起きて、あるいは看護師から起こされて、それは大体朝の7時頃だ。最初に皆で体操をやる。皆が広間に集まって大きなテレビの画面を見やりながらそれに合わせて体操をする。そして歯を磨いたり顔を洗ったりしているとしばらくすると朝食の時間だ。そして自分の部屋に戻るなり大広間でそのまま仲間と雑談したり大きなテレビを眺めていたり。自分の個室に戻ってそして彼はテレビを見はじめる。

 

朝のニュース番組からはじまって朝のワイドショーが昼まで続く。そして昼食の時間。しばらく仲間たちとまた雑談もする。そしてまた自分の部屋に戻る。本を取り出して読む老人もいるだろうが、中にはずっとテレビを見続ける老人もいる。そして同じように夕食の時間。そしてやはり同じようにしながらまたテレビだ。夕方のニュースを見る。夜のニュースを見る。途中には賑やかすぎるような特に何が面白いとも思えない世代違いのバラエティ番組などが映される。あるいはプロ野球。そして最終的な夜のニュースが終わればそれで一日も終了だ。あとは寝るだけだ。これもいつものように。

 

老人ホーム的な生の中で考えられる最も単調な生活のパターンとは以上のようなものだ。仲間たちとの交流が加わるとしても殆どの時間とはテレビの中で起きているともいえないか。それほど受動的になってしまった人間像にとってテレビの支配力というのは甚大なのだ。それは限りない惰性と主観を許容するがゆえにどこまでも受動的であり続けることもできてしかも全体を支配されうる。このときテレビの中には何もないのか?テレビと一個の老人化した主体との間に起きている出来事とは何なのか。テレビは無限の依存症を吸収している。

 

メディアとはマッサージである。マクルーハンはニューヨーク的な先進資本主義の生活スタイルの中から、20世紀の中盤においてそういう定義を発見できた。テレビの発散する映像の波動とはそれがそのままマッサージか。映像の穏やかな連続。音声と言葉の適度なシャワー。それは催眠状態に余りにも適している。テレビさえ見ていれば世界と繋がっている気になれる。しかしそれでもまた、生にとっては一つの確固たる実感だ。

 

個別の部屋に閉じながら生きる主体。それは老人ホームに住む老人だけの問題、スタイルではとても収まらないだろう。よく考えてみれば現代社会に於いてはすべての人がこのスタイルで生活を享受しうるのだ。それはすべての人々に対して現代の平等に開かれている一般的時間性の享受なのだ。このようにしてすべての人が潜在的には同じ時間を体験しうる。享受しうる。享楽しうるのだろう。