ジミ・ヘンドリックスと新しい啓蒙主義

サイケデリックと呼ばれるカルチャーにとって、ジミ・ヘンドリックスの音とは代表的なものとしてよく挙げられている。サイケデリックの定義とは、もともとLSDの大量投与を人格解放療法として考案されたものが、大学の研究機関から追放され、メキシコにサイケデリック研究センターが作られ、サイケデリック運動と称して芸術家たちへ想像力を高める薬として宣伝がなされた。そこへヒッピー達が集まり、LSDサイケデリック運動としてあっという間に広まったという歴史にある。60年代後半にサイケデリック運動とヒッピー達の中心になったのはサンフランシスコであった。サンフランシスコ系として当時隆盛を究めていたロックとは、ヘンドリックスというよりもむしろ、ジェファーソン・エアプレインやグレイトフル・デッドの存在が挙げられる。しかしサンフランシスコ系とは明らかに違うルートからサイケデリックにも決定的な影響を与えることになった、やはりドラッグの体験を前提として生成したジミ・ヘンドリックスサウンドとはそれほど高度に完成されていたのだ。

サイケデリックカルチャーにとって図像的なものと音的なものは象徴的な地位を帯びる。それがフラワームーブメントと呼ばれたように、色彩的なイコンの作成にあたっても、意味や脈絡というよりも、ひたすら感覚的に刺激的な方向へそれが拡散するものを見る。音楽的には当時のテクノロジーとしてはエレキギターのエフェクトとして歪ませて破壊的にされた効果音が投入されたが、後の発展としてはシンセサイザーの導入を伴い、極端でありながらも単純化された音の形式によって限りなく連ねていく、反意味的な反復のループを見るようになる。ドラッグによる覚醒と超−人間的な次元に到達する感覚のトランスする有様、絶対的に内的でありながら超越性の構成する体験として、独自の文化システムをそこで作り上げた。最初は覚醒的なロックの導入とともに生まれたサイケデリックカルチャーは、その後はシンセサイザーテクノポップとして形式化された永久反復の姿となって導入されるようになるものの、その基本的な内実は60年代で既に完成されていたものと考えることができる。

60年代後半の世界的な解放ムーブメントのある種の極点として、サイケデリック文化という到達点があったのだ。それは到達点であるのと同時に、すべてをそこで、感覚の極端なる解放=麻痺として終焉させ、閉じ込めてしまうことのできる極点でもあった。サイケデリックカルチャーの流れとはもちろん、現在ではいわゆるトランス系というジャンルとして連綿として繋がっている文化の存在だ。ドラッグ及びテクノロジー的な意識を導入して、身体的な覚醒を解放としてもたらそうとする、視覚的及び音楽的な運動体系とは、このようにして出来上がったものである。そこだけの完璧に閉ざされた世界を構成しうるシステマティックな存在の完成として、今にも続いている。

ロックの草創期とはそれの形式的攪拌していく現象が、背景に新しいドラッグ文化を伴った愛と自由の意識の啓蒙主義的な自己顕示として、それが広まっていったものだ。ビートルズの当時書いていた歌詞などを見ても、その傾向は顕著である。ロックの力、そして左翼革命運動の力、ドラッグの力、愛の力によって、革命がその延長上に顕現しうるのだという漠然とした楽観的信仰によって、ロック草創期のパワーというのは支えられていたのがわかる。サイケデリックがある種の啓蒙主義として広まったことは象徴的な事実である。むしろサイケデリック=トランスのシステムとは、歴史的にいって最後の具体的内容を伴った啓蒙主義文化の到達となったはずである。セックス、ドラッグ、ロックンロール、というスローガンとはそのまま一個の啓蒙主義スタイルとして機能したのだろうということだ。

そしてサイケデリック=トランス・カルチャーの退潮していく様子とは、そのまま啓蒙主義文化の引潮していく姿にも重ねて意味を理解しうるだろう。サイケデリックの覚醒は、最も安易なる他者との繋がりの意識形式として、啓蒙主義形式を復活させ、そこに呼び寄せるだろう。啓蒙主義に訴えることによって、そこで他者を探しだす。他者に愛を訴える。他者と融合しあう。愛と平和の意識に陶酔し、そしてすべて世界が閉じられる。そこではすべての宗教がパロディとして復活し再上演されることができる。

そのようなサイケデリック文化の存在とは明らかな虚構である。しかしそこで得られた確実な快楽の束を考えたとき、同時にそれは単なる虚構でもなかった。サイケデリック文化には出口がないと同時に、そこでは世界を想像的には終焉させうる、薬物を背景とする強力な威力を持っていた。実質的なリアリティを伴いうる啓蒙主義形式の存在としては世界史的に、サイケデリック文化は最後の存在であったのだろうし、サイケデリック文化の内実が晒されそれが廃れていく様とは、そのまま世界史にとって最終的に不可能と宣告された啓蒙主義スタイルの残骸が、洗い流され、流産していく姿にも重なるだろう。素晴らしいもの、超越的なものの存在とは、過去から反復されるものとして現れる「人間」の外部には、やっぱり何処にも存在しなかったということが、改めて明瞭に確認されうるのだ。啓蒙主義の対象性として示しうる超越性の存在とは、宗教のスピリチュアリティにも、コミュニズムの理念性にも、ドラッグのマテリアリズムにも、何処にも存在しなかったのだ。

ニューヨークでグリニッジヴィレッジの文化を深く呼吸し取り入れ、そこに歴史的に実在した自由の体験を音楽によって具体化することに成功したジミ・ヘンドリックスにとって、新しい啓蒙主義の洗礼をブルースロックによって実践し、オーラを放つ新しい音楽のパワーを発明し布教しつづける創作活動で、源泉的なエネルギーとなったのは、結局ジミーにとってのドラッグの存在であった。ドラッグに溺れては、そこから啓蒙的な妄想のパワーを編み出し、それを自由への革命の希求として、ジミーは放出しつづけた。しかしその無理なサイクルにも、幾つかサイクルが終わればやがて内容は底を尽きはじめる。ドラッグを武器にして芸術的生産を生き抜きながら、次第にジミーは自分の行き場所を失っていく。

ジミーがドラッグを断ち切れないことには理由があった。それは当時の彼のニューヨークの環境にあって、黒人のミュージシャンとして興行を続けていく立場にあって、彼が黒人ギャングとの関係を断ち切ることは難しかったという。彼はエレキギターを片手にして多額のキャッシュを稼いでニューヨークに帰ってきた。しかし彼の稼いだ金の殆どは、ドラッグの代金としてギャングたちに流出し、彼の手元に残っている金とはいつも僅かでしかなかっという。ジミーはこの、当時の黒人社会の悪循環からはどうしても抜け出すことができなかった。ジミーが黒人社会の暗部に巻き込まれていくことは彼にとって宿命のように感じられたことだろう。ある日ジミーはオーヴァードラッグによる死体としてホテルで発見されることになる。

ジミーのファーストアルバムが67年に出たものであり、70年にはもう彼は死んでしまった。その間に彼が完成させることのできたアルバムとは三枚である。この三枚とはロックの基本形式としていずれもよく完成しており、後々まで語り継がれ、聴き継がれていくアルバムとなった。この三枚で彼はすべてをやってしまい、出し尽くしてしまった。ジミ・ヘンドリックスの短い生涯とは、かくして奇妙なものだった。波乱にとんでいた。そしてジミ・ヘンドリックスの死後には、ロックという熱病的な音楽形式は、再び白人たちの所有物のジャンルとして、また音楽史的にも閉ざされていくことになるのだ。