Passion of Christ−「ヤバイ」映画について

パッション・Passion of Christのロードショーが日本でもはじまった。さっそく見てきたのだが、やっぱり普通のひとはあんまりこの映画は見るべきものではないだろうというのは、よくわかった。(いや、逆に普通の人なら観ても無害だが、精神的に何か陰翳や難のある時に、人がこの映画を見ると、何か無意識的なその人の機能を破壊しかねない、危険性があるとでもいった方が、よいのだろうか。)強烈な刺激を喚起する映像を意図的に作っているのだが(監督のメル・ギブソンは)、この刺激の持ち方、作り方は、精神的にいって、人間的にいって、よろしくないものだ、という内的基準は確かにあるだろうとは推測されうる。それは「人間」についての一般性の基準の持ち方においてである。実際この映画はPG-12指定というのに入っている。しかしそういう公の基準の置き方はさておき、そういうレベルとは別のところで、ヤバイ映画ではあるだろうなとは思ったのだ。特にまだ十代くらいの若い人はこれを観るのはよくないのではなかろうかと思った。(といっても見ること自体は抑圧しうるとは思えないので、批判的な基準というのを、言説としても、こういう出来事の横にはいつも一定わかりやすくして置いておくべきだろうといった程度の懸念ではあるのだが。)この映画を見て悪影響を受けてしまうということは有り得ると思う。特に若くて不安定な人間にとっては。ダーティなハードコアポルノとこの映画と、どちらが悪影響があるかといえば、僕にはこの映画「パッション」のほうだと思われるのだ。

見ながらこういうヤバイ感じを僕が受けた映画というのは、他には、パゾリーニの「ソドムの市」と、ジョン・ウォーターズの「ピンク・フラミンゴ」だろうか。要するにそれらと同じくらいに、これはヤバイ映像だと思ったのだ。監督のメル・ギブソンのセンスが滲み出ているとはいえ、あのマッドマックスというのは、やっぱり精神的にも相当にキテル人だったのではないかと思う。どうせ電波系のひとなんだろうとは思う。要するに過酷でグロテスクな虐待にジーザスがずっと晒され続けるのだが(映画の後半部は)、まずあれだけの虐待を受けて意識を失っていない人間は有り得るわけがないのであるから、単純にこれは現実ではない虚構の、ある一説の再現だという事はわかる。キリストの皮膚も切り刻まれてズタズタになっているのだが、あそこまで傷められればもう人間の皮膚は皮膚の体裁を保っていないのは明らかなのだから、あのような映像が完全に嘘であることもわかる。しかし驚くべきなのは、あそこまで極端な映像を撮りたがったメル・ギブソンの性格だろうと思う。とにかく極端なのだ。極端であるが故にそれは単純であり、わかりやすく、かつ凡庸さに落ちる。その極端なる揺れとブレの激しさにおいて、やっぱりアメリカ人の撮った、アメリカ人に解釈されたキリスト像なのだろうという気もするのだが。しかも、やっぱり映画の舞台の設定が、マッドマックスの時と似ているのだ。それが面白くもある。キリストに裁きを受けさせることを決定する王国の将軍は、スキンヘッドで、ジューダス・プリーストのヴォーカリストみたいな井出達で演技である。

しかしこの映画はそれでもやはり大変に面白かった、何かの内的に充実したイメージ−時間の流れを映像的に実現したものであることは確かであると思う。あんまり評価も決して与えたくはないのだが、それでもどうしても気になってしまう、振り向かざるえないような、妙なカタルシス、そして妙な感動のメカニズムというのが、この映画の中には確実に存在してるのだ。・・・だから見終わった後の感じは、やっぱりピンク・フラミンゴの時と似ているのかもしれない。・・・見なきゃよかった、と思いつつも、それでも内心やっぱり面白かったな、という感じは拭えないのだ。ストーリーは曖昧な設定である、だから感性的な映像の流れの、意味の外側にも明らかにはみ出している映像の体積として、あの映画はすごい、よく出来ていると思えるのだ。

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